世の中には様々な人間がいて、同じ出来事であってもそこから何かを汲み取って自分に向けて建設的にそれを活かせる人も居れば、反対に、そこから何も得ることなく、従っていつまでたっても成長しない人も居ます。
それは日常生活の中で常に見られる現象で、例えば学校で行われる保護者面談(二者ないし三者面談)で、先生から指摘された生徒の問題点を、その言葉を正確に理解すると同時に問題の品質を見極めて解決のための行動に移せる人もいる反面、そこで言われたことを曲解したり誤解したり、酷くなると真逆に受け止めてしまったり、最悪なのは先生の言葉に悪意を抱くだけで、従ってそこに何の進歩も成長もないといった極端なケースさえあります。
最近、学校の教師たちの不祥事が喧伝されていますが、勿論そんな問題教師ばかりではなく、中には一生懸命に子供たちと向き合っている先生も少なくありません。
そういう先生たちであれば、面談の場などでは間違いなく真実に沿った話題をそこに載せ、生徒たちの成長と利益を考えた具体的な策について様々言及してくれます。
折から、塾の教室でも多くの保護者の方と面談を行って、夏休みの過ごし方や、夏休み後の定期テストへの臨み方等について話をしていますが、そこでは必ず学校の先生から最近指摘された事項にも触れています。
そのとき、殆どの方は、学校の先生に指摘された事項を前向きに受け止めて、これにいかに正しく向き合うかを考えておられる様子が窺えて安心しますが、中には、「こんなことも、あんなことも言われた」と言って、自らとその子供のことは一切顧みず、ひたすら学校の先生の言や、酷くなればその個性までをも攻撃して憂さを晴らすかのようなわけの分からない行動に出るケースもあります。
先日も、こんなことがありました。
学校の先生から、子供についてこんなことを言われたそうです。
「なにかにつけて反抗するばかりで、教師の指示をまともに受け止めるということがまったく出来ていない」
「公然と宿題やその他提出物を放り出して何もやろうとしない」
「生徒間だけでなく、教師に向けても常に相手や他人の悪口雑言を繰り返すばかりで、これではまともな人間関係の構築は到底望めない」
ごく普通に見れば、このことからは、その子の何が問題で、これから何をどうして行くべきかが素直に理解できるはずだと思うのですが、この話を塾の面談でした母親は違いました。
そこで出た言葉は、まさに学校の先生が指摘したこの子の日常そのままであって、「悪いのはうちの子じゃない、全ては周りの子達や学校の先生だ」という責任転嫁と悪口、或いは「宿題をやらないのはあの子にその気がないからで、それをどうこうするのは学校の先生の仕事。親がどうこうできることじゃない」などといった、正直な感想を言えば、それ自体私には理解できない支離滅裂なことばかり。
これだけみれば、この子の問題の出発点はなるほどこのあたりにあったのかと思うしかないという、こうなるともはや惨状です。
学校の先生が正面から指摘してくれた言葉の全てに対して、悪意を持ってしかこれを受け止められないところが問題です、ということだけでは済まず、このケースでいえば、「先生の評価が悪い。成績が上がらない」という現実にたいしてこれをどうにかして改善する手立てや努力まで考えが及ばないことと、場合によってはそこでとるべき手段や行動とはまったく違ったものに着手してしまうことからくる徒労(無駄な時間の使い方、無駄な努力の仕方)が口を開けて待っているというシビアな現実です。
今、目の前に座って忌憚の無い意見や策を述べてくれ、そしてその結果を評価する権限を備えた学校の先生の言葉をこのようにないがしろにしておきながら、それでいてその低評価を嘆き、果てはその評価者を悪し様に言うといった一連の行為がいかに非生産的であるかは、ある時点を過ぎると、もはや誰も指摘してくれることさえなくなります。
こういう考え方や行動しか出来ない人の場合、まずたいていのケースで、肝心の子供の成績が上がることはありません。そのわけについては、これ以上書くまでもないでしょう。
翻って、学習塾の場に目を転じた場合、ここはあくまで教科の学習の場であって、集団生活や社会生活の訓練を積む場ではありません。
ですから、上に書いた例で言えば、ああいった思考をお持ちであって、しかもこれを改善してくださることが望めないのであれば、そういう方は、学習塾としては他の生徒や保護者の方の利益を守るために、ここから退去して頂かなくてはなりません。
それはそれで非常に残念な判断ではありますが、冒頭の例で言えば、その判断をせざるを得ないきっかけが、そもそも先方の言動から塾が受け止めたメッセージの正確な解釈にあるのだということでもあります。
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