セミナーでは、集客(の仕方や課題)についても話が出ました。
個別指導塾の場合、十羽ひとからげに(←言葉は悪いですが、この言葉は以前とある集団塾の先生が実際自塾生徒の扱いの仕方をこういう言い方で表しました)生徒を扱うのは物理的にも不可能です。
ここでは出来る限り細かな対応が出来る体制を常にとっておいて、その中で曜日や時間帯などに応じて臨機応変にその細かさの度合いを調整します。というのも、全ての生徒が細かさを求めているわけではなく、また冷静に見てそうすることが最良であるというわけでもないからです。
理想的なことを言えば、子供たちには出来るだけ自分の頭で問題を探り、そして解法を駆使してそれらを克服していくことが望ましい。でも、悲しいかな、何人かの子は、それからして出来ないこともあり、この時点で講師の側には細かさの調整が必要になります。
そんな風に考えると、個別指導を標榜する学習塾の場合、そこで預かる生徒数(教場のキャパシティ)は一定の限界があります。
一方、塾の経営を優先する時、そこにはこうした指導する際の質と同じか、時にはそれ以上に生徒数(のボリューム)を先に考えてしまいがちな局面というものがどうしたってあるのだと思います。
私の今日でも、かつてこのジレンマがあったことがあります。
藤沢でも天王町でも、「来る者拒まず」路線で教室運営をしていたことと、時流もあったのでしょう、開校後数か月で生徒数が100名ほどに達して、毎日毎日講師手配から始まって、科目ごとの指導の進め方まで、毎日が常に追われるおうな感じでしたので、どうしても、今私が理想とする細かな指導というものが出来きれてはいませんでした。
幸いにして、横浜国大と慶応大の現役大学生たちの情熱的な指導の協力がありましたので、この時期預かっていた受験生たちの95%はみな志望する学校の受験に成功することはできましたが、本体ならばもっと盤石の細かい指導が出来ていなければならなかったことに変わりはありません。
話し合いの中では、であれば、どの時点をもって自分が理想とする細かな指導の出来る範囲とするかについての活発な意見が飛び交いました。
夏期講習では、各学科・各単元の基礎をなす部分の理解度確認の上で、これらの再定着を図ることにも時間の多くを充てました。
数学でいえば「素数とはなにか」」とか(←素数に「1」」が含まれると思っている子が一定数います)、√36の答えに―6が含まれるか、などの確認がこれに当たります。意外かもしれませんが、こうした小さな事が結構大切なんです。
英語でいえば、単語のスペルを覚える際に、生徒たちの何人かは決まってこれを無味乾燥なアルファベット記号の羅列だけで覚えようとするあまり、無駄な時間をここで費やしていまいます。これを正しい形にするために、一つ一つの単語の読み方はその都度正確に耳で聞かせてこれを覚えさせることから始めなければなりません。
国語の文章読解では、設問文を正確に読ませたうえで、そこに出てくる用語や語句の意味を面倒がらずに調べさせ、確認してから設問処理に当たらなければ、懐中電灯無しに真っ暗な森の中を進ませるのと何ら変わりません。こういうことは普通生徒自身の努力でしなければならないことですし、実際そうすることのできる子は良いのです。ですが、そもそもこれが出来ない子には、いくら口で言っても反応しないことが往々にしてあります。きっと小学低学年の頃に適切な指導を受けられなかったか、受けたにもかかわらず、それを自分のものにっするには至らなかったのでしょう。それが今、高学年や中学生になって表面化してきているのです。
こういうことを理解していない保護者は、こういう子に対して何の工夫もなく「勉強しなさい」とは言っているんですけどねえ、などと、いかにも子供に全責任があるかのような態度をして見せますが、はっきり申し上げて、それはいつでも常に「子供の側だけの問題」では決してありません。保護者、学校、私たちのような教師区産業に携わる者の協力(共闘と言っても良い)で、中学生の時までにこうした問題を解決しておくべきだろうと思います。
塾では平素からこうしたことはやっていますが、夏期講習のようなまとまった時間を確保できる時は、なおさらこれに取り組むチャンスだと思って今年もやってきました。
今年の夏期講習では、次のような試みもしてみました。
テストに弱い子にはいろんなパターンがあって、単に学習理解度が足りていないだけではないことが前から分かっていました。受講生の中にもそういう傾向の子がいて、これはただ学習指導をするだけでは不十分という観点から、テストに臨むに際しての具体的対応策をいくつか試しました。その一つは、時間の配分の仕方です。言い方を変えれば、問題を解いていく途中で分からない問に当たった時にどのタイミングで一旦それをスルーして次の問いに向かうかという具体的見極めの仕方の伝授です。
実際、これが出来ないあまりに問題の後半に行くにしたがって残り時間が速度を上げて減っていき、これが心の中にパニックを引き起こして結局持っている力を十分に発揮でできないままそのテストを終えてしまうという苦い経験をする子が少なくありません。ここでやったのは、精神論ではなく、具体的な手順でこれ以上この轍を踏まないワザを身に付けることでした。
一通りこれを行った後で試しに時間を区切って大量の問題を解かせてみたところ、これをする前に比べて多い子で50%、平均して20~30%得点がアップしました。このことから、今までいかに多くの子が実際の学力以外のところで失敗して(テストで失点して、という意味)来たかが分かりました。ですが、これは言うは易しで、そうそう簡単に治る癖ではなく、定期的或いは継続してこの時間配分の訓練をしていかなければならないことも分かりました。これについてはもう既に講師達とも認識を共有し、そして日々の授業カリキュラムの中に取り入れている最中です。
今年の夏期講習が終わりました。
今回はそれを振り返ります。
夏期講習の目的は、これが始まる時点で本来身に着けている筈であった単元の知識のうち、忘れてしまっていたり、そもそも理解できていなかったものの中から、当面近い将来の学校の勉強やテストで必要なものを抽出して細かな意味で復習することと、特に公立中学性の場合、学校で出された夏休みの課題を処理するアシストをすることです。
誤解を避けるために敢えて書きますが、あくまでアシストであって、決して代行ではありません。これのやり方は、はじめに生徒本人に着手させ(←国語社会英語は、この時点で本人の発想やアイデアが極めて大切なポイントになります)、こちらは適宜ヒントを与えたり時間の有効活用の為に、明らかな間違いが見られた時の修正を図ったりしました。
こうした進め方は、出された課題を使った学習そのものであり、国語(作文)でいえば、文章の構成、正しい表現方法(←文法知識の確認になります)、漢字の学習などの勉強に相当します。
社会では、国調べや人物調べをする中で歴史や公民の知識習得を図りました。雨温図の特徴と、それが世界のどの気候帯のものなのかの判読の仕方も勉強しました。
英語では、この時点で当然に備わっているべき単語や熟語の定着度、習熟度を確認したうえで、足りていないものを時間を区切って練習するとともに、各学年・各単元で習う文の形について、設問を処理する中で力のアップを目指しました。
数学は、計算と図形、それに文章題とを組み合わせた各種問題を講師がほぼ横について指導することで、考え方や解き方の手順やパターンをやって見せました。
理科は、映像解説による基礎的事項のおさらいの上で講師による細かな部分の解説を加えて問題への対処の力を養いましたが、正直な感想で言えば、この部分は少し時間が足りなかった観がないではありません。
それでも、全体を通じて夏期講習に込めた目的のほとんどの分野は概ね達成できました。
昨日からは、これを受ける形で、授業の内容を来週予定されている前期末テスト対策の色を濃くしたものに変えて行っています。
一昨日のセミナーでどんなことが話題になったのでしょうか。
私はその夜は現地のホテルに宿泊しましたが、中には日帰りの塾さんもいて、そのため話題(議題)は絞りに絞って、しょぅもない成功体験などは一切省いて,もっぱら現在の課題点問題点の開陳と、それへの対応策についての討議が中心でした。
紹介された問題は、各塾とも似たり寄ったりで、例えば個別指導塾にありがちな
「集団塾に比べて費用が高めに設定されているので、そのため入会への敷居が高いと保護者には思われがちである」とか、
「入会者がどうしたって(毎年の傾向という意味)低レベルの子に偏りがちなため、成果を挙げるにはかなりの時間と費用がかかること」
などが挙げられました。
タイムリーなところでは、コロナ以降、明らかに生徒入会の客足の低迷が目立っていることがありました。これらはいずれの塾においても(当会も含めて)見られる共通した問題点であって、そのためこれらをいかにして克服していくかがそのまま課題として挙げられます。
まず「費用が高いと思われがち」ということですが、これはどの集団塾を比較の対象とするかによって違ってきます。いくつかの塾で(当会も、です)、実際に近隣の集団塾との比較をしてみた結果、たとえば週二回通塾して二科目勉強するというパターンでは、授業料の差はほとんどないか、あっても3000円以内に収まるというのが一般的でした。
この場合、比較すべきは講師の質、力量、使用教材の質と量、授業後の自学面のトレースの有無や質などであって、これらの精査の上で初めて費用の比較がされるべきであるるといった姿勢をしっかり持つ事が重要という意見に大勢の考えも集約されました。
以下、次回。
阿呆みたいな話し方というのは、語尾伸ばし、語尾上げ、ら抜き言葉などです。言葉それ自体に意志はないので、結局はこれを使う人間、それも一定以上の分別や最低限の教養が備わっていて当然の大人を好まないということになります。
ですから、その基準に照らして、何がしかの用事と理由で教室にやってくる人たち~講師志望者や配達業者たちがこうした言葉を恥ずかしげもなく使う場合には、それが講師志望者の場合には即不採用にしますし、業者の方の場合には最低限の会話でお引き取りを長います。そこで営業トークなど始められた日には、一気に拒絶モードに切り替わります。
特に講師志望者の場合には、もしもこういう人が子供たちの学習指導に当たった場合、その間違った話し方や言葉の使い方は即子供に伝播してしまいます。現に子供たちの中には、既にこういうおかしな言葉の使い方や話し方が芽生えてしまっていることもあり、そのおかしな話し方をやめなさいといっても、彼らは「だって(学校の》先生も使ってるもん」などと言います。
おかしな言葉の多用はあっという間に広まります。
今どきのファミレスでは、何かを注文してそれが出来上がって運ばれてくるとき、十中八九「これが●●になります」などと「なります話法」を使われます。最近はこれに「以上でご注文の品は大丈夫でしたか?」などといった「大丈夫話法&過去形話法」が組み合わさった、こちらにしたら苛立ちトークが添えられます。
こんなしょうもない話し方も、上に立つ人間がしっかりとした教養と常識の下で正しい教育指導をすれば起こりえないはずです。現に帝国ホテルあたりでお茶を飲んだ時に、私はただの一度も「アイスコーヒーになります」などと言われたことはありません。
今朝、テレビで信濃大町と、そこに暮らす人たちのことを特集した番組を偶然みました。
信濃大町は北アルプスの麓に位置する何とも魅力的な町です。ここでは北アルプス流れてくる雪解けの超軟水を使ったビールが有名で、とあるその醸造業者の男性のインタビューの場面がありました。見たとたんに一変に興ざめしました。
彼はいいました。「これが醸造の工場になります」
「なります」じゃなくて、現になっているだろう、工場に!
続けて「ビールはあー、80%が水からできているのでえー、大町の水はあー、出来上がりのおー 味の?よさにいー、とってもマッチする?みたいな」
もうここまでくると阿呆と言うより、ほとんどバカにしか見えません。
いい年をした大人は、その話し方にもっと責任を持てと言いたい。
高校によって、また公立中によっては来週には新学期が始まり、他の学校もそれに続いて新しい学期に入ります。ここらで気持ちを切り替えて、前進前進‼️