学習塾で子供に勉強(の仕方)を教えていて時々思うことの中に「(勉強することが)続く子とそうでない子」の違いについて、です。
これは、言い方を変えれば「子供に勉強をさせるということの何たるかを知って(理解して)いる保護者であるか、そうでないか」の違いでもあります。
ここでいう両者「続く子とそうでない子」「理解している保護者とそうでない保護者」は、まさに表裏一体をなしています。
「そうでない子」は、「そうでない部分」を失くすことが即ち「続く子」ひいては「出来る子」につながりますし、「理解していない保護者」は、そのことを自ら悟ってこれを改めることで反対側に立つことができ、そしてひいてはこれが子供をして「続く子」へと変えさせる後押しにもなります。
ここでは、このうち「理解していない保護者」について、大変おこがましいかとは思いますが、少し書きます。
端的に書きます。
子供の横で、子供がするように無邪気になってゲームに興じていながら、横の子供に向かって『さっさと勉強しろ』なんて言っても、そんなものは何の効果も意味もありません。100歩譲って何某かの効果があるとしたら、その子が少しませていて「こういう親のようにはなるまい」などと諦めの境地を垣間見ることくらいでしょうか。
こういう方は、その心根の根底部分において「理解していません。」
小学校高学年以上になると、国語の授業で敬語について学びます。
尊敬語、謙譲語、丁寧語など、ごくごく基本的な、しかし日本語特有の大切な勉強です。これらは、単に知識として持っているというのでは意味がありません。
時と場所とに応じて適切に使いこなせてはじめて理解したことになります。
子供と保護者と教師なり講師なりとの三者面談等の場面で、普段の感情の赴くままに、子供に向かって「テメエ」とか「バカヤロウ」などと口汚くののしりながら「先生、ウチの子、ちっとも真面目に国語の勉強をしないんです」などと言って嘆いて見せたりするのも「理解していない」ことを露呈しているに過ぎません。
学歴について。
高卒であるか大卒であるかは、その違いが即その人個人の人間性の価値(のようなもの)を決定しているわけではありません。
でも、子供に向かって「オレは行こうと思えば大学だって行かれたんだ。ただ、面倒くさかったからいかなかったんだ」などと、子供に向かってしょうもないことを言ってみても、その子供が普段すぐに勉強を投げ出してしまうたびに「面倒くさい」と言って捨て台詞を吐いたとき、効果的で気の利いた説教などできるものではありません。これも「理解していない」例です。