こんばんは。
三ツ境校は明日まで第5週休みです。
明後日からの授業に備えて教材その他を整備し、パワーアップの準備に余念がありません。
藤沢校は今日も、そして明日も定期テスト対策の授業を行っています。
こんばんは。
三ツ境校は明日まで第5週休みです。
明後日からの授業に備えて教材その他を整備し、パワーアップの準備に余念がありません。
藤沢校は今日も、そして明日も定期テスト対策の授業を行っています。
昨日の高校受験対策講座~理科授業編はいつもに増してうまくいきました。
通常、講師主体の授業の組み立てを、昨日は事前に生徒たちに一人当たり10の質問を用意させて、授業でそれを自己申告させたうえで半ば全員にそれを聞かせ、半ばその質問者の疑問に懇切丁寧に解説するという形式にしました。
結果は、授業の目的を絞ることと、個別の質問を皆が共有できたこと、質問者の満足度を高められたことで、十二分に充実の授業になりました。
次回の講座は数学の予定です。
乞うご期待。
昔東京でサラリーマンだった頃、元気いっぱいだった私は週末になると家にも帰らずそのままクルマで八ヶ岳のふもとまで走り、そこで仮眠を取って土曜早朝から赤岳や天狗岳などに登って頂上小屋に泊まり、日曜に下山して漸く家に帰ってまた月曜に電車に揺られて出勤、というような生活をしていました。
その時も仕事の量は結構多かったのですが、今はそれより更に多くなって、ここしばらくは山に登れず鬱々としています(笑)。
自然の風が呼ぶ声はしかし忘れがたく、だからといってすぐにそこに行くこともままならず、そこで誤魔化しでこの前の日曜の午後、思い立って河口湖に車を飛ばしました。
せめて山の湖の湖面を流れる冷たい風に浸ってみよう。
そんなことを思いながら。
途中、富士山須走登山口を左に見て、「あ、まだ5合目へのゲートは閉じられていないんだ♪」とか、雪の頂上付近を車窓からみては、以前登ったときの足元のガレ場の苦労を思い出したり、頭の中は半分以上自然界の空気に引き戻された気がしました。
同時に、毎日毎日私や他の講師たちから叱咤激励されて勉強に追い立てられる子どもたち(特に受験生)のことを思いました。
彼らの息抜きはなんなのだろう。
それはどこにあるのだろう?
そんなことがあったせいか、今週の私の目には、いつも見る子どもたちの顔がとても繊細な、例えばガラス細工のようにも感じられ、いつもそうですが、ここはこれまで以上の愛情を持って接していかなくては、と心から思った次第です。
先週から今週にかけてなぜか異常な忙しさで、ここに記事を載せる時間すら持てませんでした。
今日土曜日は三ツ境校で小学生チームのレギュラー授業と、17:30から中三生対象の公立高校受験対策講座があります。
今日の科目は理科で、この授業のため、今日は特に藤沢校から八木先生の出張をお願いし(彼は東大の理科類卒)、いつも以上に中身濃い対策授業をたっぷり3時間行います。
来週月~水は月の第5週に当たりますので、レギュラー授業はお休みで、11月に定期テストを控えた3年生と、一日足りとて時間を無駄に過せない私立中受験生、それと大学のAO受験を控えた高校3年生のみ、追加の授業を組んでいます。
秋も深まり、夜が長くなりますので、落ち着いて勉強に打ち込めるかと思います。
普段の頑張りももちろんですが、この季節を皆さん有効に活かしましょう!!
録画してあったテレビ番組を観るとはなしに観ました。
金八先生第六シリーズ。
学校教育、なかんずく桜中学の学力レベルを引き上げることに注力する千田校長の方針に真っ向から異を唱える金八先生に台詞の中に、「子どもを塾に通わせて成績を上げることだけに何の意味があるのですか!」といった趣旨の言葉があって、一瞬びくっとしました。
昔の自分なら一も二もなく金八先生の言う事に同調したであろう自分。
今の自分は、しかしこの「意味があるのか」という仕事に従事する身として、堂々と言い返せます。
「意味があるに決まっているじゃないか!」
とっくに終わったテレビ番組のシリーズ中の逸話に一喜一憂しても始まりませんが、しかし物事は単純に白と黒に割り切れるものでは有りません。
中学校生活というのは確かに勉強だけがすべtではないと思いますが、「すべてはない」ということは、つまりは大事な大事な一部であるということでもあるのです。
いや、一部どころか、主要な部分であると言い切っても構いません。
私たちは、そういう部分で仕事をしています。
勉強するという行為を成功に導くコツの一つに、慢心しないということがあります。
慢心でわかりにくければ、油断でも良いと思います。
それが象徴的に表れるのが「オレわかった。もう大丈夫」とか軽いノリで言い放って手を抜き、その後絵に描いたような失敗をするというパターン。
男の子に多いと言ったら言い過ぎでしょうか。
仮に一回や二回80点ぐらいとれたからと言って何時でも何の科目でも同じ結果を得られるなどと勝手に思い込んでしまうことの愚かさは、ほぼ100%の割合で次回以降のテストなどで実証されます。
慢心と油断は成功の大敵です。
今日例年より数日早く富士山に雪が降ったそうです。
富士山は真夏の登山季節でも頂上付近の明け方の気温は零度近くに下がります。
これから真冬に向かっては、日々寒さの度合いが増し、もっとも寒い日には零下20度かそれよりもさらに低くなります。
毎年この雪化粧をした富士山を見るたび、「もう受験本番の季節だな」と思います。
私立中受験は2月はじめ、公立高校受験は二月中旬と、富士山に限らず一年を通じてもっとも寒い時期に行われます。
気持ちを引き締めることはもちろん、体調管理にも十分に留意して受験本番を乗り切りましょう!
私は基本的に学校の先生を最大限尊重しています。
例えば進路に関することについては、何をおいても学校の先生が言うことを最優先にとらえることを保護者の方に進言しています。
ごくまれに、それに疑問を抱くことが残念ながらあります。
例えば、「塾ではなんて言ってる?」とか「塾で受けた模試の結果を持ってきなさい」などといった「他人任せ」はまだかわいい方で、ひどくなると(進路に関して)「後で責任を負えないから(何も)言えません」とか「塾の先生は立場が違うから」などと言ったことを平気で口にするような先生には、正直疑問を通り越して呆れてさえしまいます。
受験の最中にいる生徒とその保護者にとっては毎日が不安であるからこそ学校の面談で志望校に関する情報を求めたり、先生の助言や見通しを求めるのに、「後で責任を負えないから(何も)言えません」などと言われた日には何をかいわんやです。
残念なことに、ごくまれにではあっても現実にそういうことがありました。
受験生(とその親)は、その先生に「保証」を求めているわけでもなく、後になって「どうしてくれる」なんていうつもりでもありません。
「後で責任を負えないから(何も)言えません」ではなく、「責任をもってここまでのことを今は言えます。あるいはこれ以上は今は言えません」というのが正しい言い方であるはずです。
また、「塾の先生は立場が違うから」も意味が分かりません。
「立場が違う」のは当たり前であって、だから何だといいたいのか、ということです。
学習塾はあらゆるデータを駆使して進路情報を生徒と保護者に提供し、そのなかで「責任をもって」言うべきことを言い、言えないことは言えないといった意見や見解を述べます。
「塾の先生は立場が違うから」などと言った物言いからは「(受験は)学校に任せておけ。口出しするな」とでも言いたげな臭いさえ感じます。
学習塾は、その必要があって存在しているのであって、それを認めていただいて、そしてこれが有効であるから需要があるのだと思います。
私たちは今後も「責任をもって」生徒やその保護者達と向き合って前に進んでいきたいと思います。
頑張る、という事について人は(もちろん自分も)結構安易にこの言葉を使いがちです。
しかし、この言葉を口に出して言うとき、果たして言う人の側の思いがどれほど正確に相手側に伝わっているでしょうか。
生徒たちと向き合ってこれを言うとき、しかし私としては最低限度これに変わらぬ意味を込めているつもりです。
実際には、別の言葉でこれを補足して彼らには伝えています。
私の言う頑張る、もしくは頑張れというのは、その行動なり行為を、その量はともかく、頻度をコンスタントに維持しろ、ということ、これに尽きます。
例えば、「今日は頑張った。3時間勉強した。明日はやらない。明後日もやらない」なんていうのはちっとも頑張ったことにはなりません。
そんなものは単なる気まぐれに過ぎません。
そんなことで点数や成績なんかあがりはしません。
ここは学習塾ですから、学校のような社会生活の訓練のようなものは基本的にカリキュラムその他に含まれません。
その分点数や成績を如何に上げていくかということに重点を置いています。
人生を生きていく上でそんなもの~点数や成績などは大した意味はないとも思います。
しかし、今この瞬間は、これを追い求めることを命題に私たちは活動しておりますし、入会して頂いた動機も多くはここにあるのだと私は思います。
その場における、日常使う「頑張る」という言葉。
繰り返しますが、私はこれを「コンスタントに行動し続けること」と考え、皆さんに求めています。
一回に三時間やって、それで満足して明日もあさっても何もしない、のではなく、今日も明日も明後日も1時間ずつやる、そのことを求めています。
今日は珍しく電車で三ツ境にやってきました。
半年ぶりくらいの電車移動でしょうか、まるで田舎から出てきたオノボリさんのようで、車と電車とでこんなに見える景色が違うものか驚きました。
乗り始めは江ノ電の駅ですが、乗った途端車内の混雑に辟易。
多くが鎌倉高校の生徒さんたちだったのと、多分テストか何かが近かったからなのでしょう、みんな車内で立ったまま参考書や問題集を開いては互いに小声で問題を出し合ったりしていて、アルミニウムの精錬とか、explorerとかexpansionとかいった言葉が飛び交っていました。どの子も真剣な眼差しで、さすが鎌倉高校と思わせるに十分な空気がそこにはありました。
とか何とか言っているうちに藤沢から大和について、そこで相鉄に乗り換えるときにすぐ来た車両に乗ったら昔はなかった特急とかいう種類で、車内放送では次の停車は二俣川と。
乗り過ぎました。
昔東京で金融機関に勤めていたとき、出張で群馬県の前橋まで行くべきところ、載った新幹線でうっかり寝てしまい、新潟県の越後湯沢まで乗り越してしまったことを思い出しました。
やれやれと思い、時刻も少し余裕があったのでお茶でも、と思って駅ビルの中の珈琲館でもと思ったら、全館改装中で休み。とほほ。
というわけで、トボトボと歩いて教室までやってきたという次第です。
英語の授業はオーソドックスなスタイルで、学校の教科書の配列に沿った単元を消化するという学習法です。
毎年そうですが、英語が好きで自然な形で英単語を覚えられる子でないと、一気にこの科目が苦手分野に押しやられてしまう傾向があります。
一旦沿その流れにはまると、次々出てくる単元が要求するものに暗いついていくこと自体が困難になって、嫌なものがますます嫌になってしまうという負のスパイラルになります。
そこで凛先生が自らこしらえた英単語&熟語のマスター教材を今週から使用して、この嫌な流れの向きを力ずくで引き戻すことにしました。
自分の体験を書きます。
自分で言うのもヘンですが、私は子どもの頃から要領だけはよく、テストの際にはこれが随分と発揮されたものです。
といっても小学校時代はそこそこの位置で大したことはなく、中学に入ってから特定の科目で100点とか98点とか、おそらく学年でもトップもしくはそのクラスに位置していたと思います。
その反面特定の科目に対する苦手意識を克服する気概に欠け、それもあって入った県立高校は今でこそ上位高の位置ですが、出来たばかりの当時においては海のものとも山のものとも分からないというのが正直なところだったかと思います。
友達のお母さんで他人の事が気になってしょうがないタイプの人がいて、いかにも興味津々且つ値踏みするような目つきと物言いで「オタクの高校はどのくらい(のレベル)?」なんて聞かれたと当時母が言っていたのを思い出します。
私に言わせれば大きなお世話でしたが、まあその程度であったということでしょう。
大学に入るときは自分でもまじめに勉強した記憶があって、数ヶ月間毎日ほぼ8時間勉強しました。
目標を持ってやる気があれば最低でもそのくらいは出来るのだという自信がもてたという意味で、あれはあれで自分の人生の財産のひとつであったと思います。
今私が子どもたちに向き合うとき、この経験がベースになっています。
今日は所謂旗日。
昔の人は祭日には玄関の横などに日の丸の国旗を掲げてこの日を祝ったことからこう呼ばれるのだそうです。
それはともかく
祭日の今日も授業はしっかりあります。
特に受験生の皆さんは、こういうときにしっかり力をつけておくことが最後になって必ず役に立ちます。
そう断言します。
なぜそういえるか。
自分自身がかつてその道を辿ってきたからこそです。
私(マスターK)に限らず、講師諸君には、決して自分がやってこなかった、或いは出来なかったことを上から目線でえらそうに生徒たちには言わないことを伝えております。
自分自身がやってきかことだからこそ言っています。
平凡な自分がやってきたことゆえ、他の誰もがその気になりさえすれば必ず出来ると、私たちはそう信じて皆さんと向き合っています。
毎日仕事の後のクルマでの帰宅が23時から24時の間になります。
斜め前の塾さんはほぼその時間にはもう教室を閉めていることが多く、大概照明が落とされています。
ちなみにここの教室長さんはとても良い人で(1回しか話したことがないですが)、通う生徒さんたちも明るくて好感が持てます。
国道1号線に出る前にある明光さんは、私がその前を通るときは大体室内にスタッフが残っているのが見え、いつも応援の気持ちでそこを通り過ぎます。
1号線を過ぎると左側にまた別の学習塾が二軒連ねるように建っていて、その時間帯はもう生徒の姿はほぼありませんが、やはりスタッフがいると見え、明かりが点いているいることが多く、ここでも応援の気持ちで前を通り過ぎます。
藤沢市内に入ると、鎌倉に続く道の右側に集団塾があって、たまに22時前にここを通るときは自転車が多数留まっているのが見えますが、それを過ぎるとスタッフらしき人がロープを張っていたりして、無関係なのに「お疲れさま」なんて思いながら通り過ぎます。
こうして改めてみると、学習塾の数の多さに驚きます。
学習塾の存在が公教育の周辺にあって、通う子供たちの今と将来を懸命に支えているのだと思います。