先週と今日、それぞれ高校生の子の保護者と名乗る方から問い合わせの電話を頂きました。
お問合せそのものは大変ありがたいことではあるのですが、どちらも「いくらですか」という質問だけが前面に出て、ACSではどんな子に向けてどんな勉強をするのか、といった基本というか、大前提をまるっきりスルーする訊き方であって、これでは伝えるべき100分の1の情報すら伝えられません。
最近は、こういう問い合わせの仕方が結構あり、その都度砂を噛むような感覚を味わっています。
そもそも、その子が勉強面において今どんな問題を持っていて、それをどのように解決・改善していきたいと考えているのかも分からなければ、組む授業のボリュームも提示できません。例えは悪いですが、病気の人が電話一本で病院に「いくらですか」なんて聞いても、聞かれた病院は何らの診察もなしに「ハイ、1万円です」なんて言いませんよね。
勿論、中にはしっかり訊くべきことを訊いて下さり、そうすることでこの塾で勉強するということがどのように立体的に子供の力になっていくのかを可能な限りイメージしようと努める、きわめて前向きでピントの合った問い合わせの仕方をされる方がいます。そういう時は、「素晴らしい聞き方をしてくれました」といって、内心ひそかに感謝しています。
15日(金)に、新大阪の映像教材会社に視察に行きました。なかなかの評判の教材につき、これはぜひ一度は実際にどんな会社がどんな意気込みで作っているのかを自分の目で見るために。
新大阪駅から徒歩圏内にあるということで利便性もよく、遠方から行く身にはとても有難かった。会社もいかにもいかにも今風のつくりと雰囲気とで、時代の先端を行くというのはこういうものなのか、などと思ったりもしました。
数時間たっぷりと見学し、併せてたくさんの質疑応答もさせていただいて、その日は京都に向かいました。今年は3年ぶりの祇園祭が行われている京都は、この日が宵々山。
四条烏丸近くに宿を取り、近くの筋を静かに散策、と行きたかったのですが、3年ぶりの祇園祭ということでどっと押し寄せた(自分もそうですが)人、人、人で思うように進むことも出来ず、牛の歩みのような速度でやっとのことでそこを抜け、四条通を東に向かいました。目標は八坂神社でこの夜行われる宵宮祭。夜8時に境内の照明を全部落として3基の神輿に神霊を移すという神事。初めて見た神事は、それはそれは神秘的でしたが、落とされた照明が一斉に再度灯された瞬間、それまで保たれていた天気が一変し、ぱらぱらと雨が降り出してきたのは、まさに神の意志にも思えました。
翌16日は、朝から市内を散歩。
烏丸通りを丸太町通りまで進み、信号を渡って御所の庭で暫し黙想。その後梨木神社を経て荒神口を渡って鴨川のほとりに出ました。
ここには依然リバーバンクという良い雰囲気の喫茶店があり、真夏の暑い日にここの窓際の席で冷たいビールを飲みながら川の流れを眺めた思い出がありましたが、残念ながらその後店は閉じられ、今はお洒落な家が建っていました。
川のほとりに降りてベンチに腰かけて、水の流れを眺め、その音に耳をすませ、時折頬を撫でる涼しい風に、しばしここでも黙想しました。白い水鳥が一羽、流れの中央で遊んでいました。
私(マスターK)は個人としては「テスト?たかがテスト、されどテスト」というスタンスで子供たち、授業、そしてテストに対峙しています(ここでいうテストは主として中学生の学校の定期テスト)。
で、こういう状況下、子供たちが一体どれだけの量の勉強をしなければならないかという意味の質問をしてくることが少なくありません。
「たかがテスト、されどテスト」というスタンスの私は「キミがどれだけのポジションを狙うのかに拠るよ」と答えます。
すると、彼らは大抵「???」という顔をします。私は続けます。「前回のテストに対して今回どれだけ(点が)上がったか、他の子たちの平均に対してどれだけ上に立ちたいか、自分自身が目指す地点(目標点)をどこに置くか、の三つがポイントだよ」
何とも当たり前の話です。
でも、こうして「道はこっちを向いている。進み方はこれとこれとこれとこれ」といくら言い、寄り添うようにやって見せても、仏作って魂入れず、というのも現実には沢山あって、先日もこんなことがありました。
中学生のA君は、どちらかと言えば覚えるのが苦手で、且つ一つのことを継続するのがこれまた苦手。保護者はというと、あまり論理的とは言えないほどの、敢えて言えば、突拍子もない目標数字をその子に課して、しかも具体的なサポートはあまりないまま、来る日も来る日もがみがみ喧しく尻を叩くといった具合。
こういうとき、多くの子供たちは、目先を誤魔化すという方法に逃げ込みます。やってもいないのにやったといって、要するに嘘を吐いてその場をやり過ごすのが彼らの常套手段です。
A君も大いにそういうところが見て取れます。それがあまりに長い間続き、その嘘も次第に巧妙化、悪質化してきたある日、私は彼を呼んで、やる気がないということをそうした行動で訴えているのなら、そしてこうして面談してもそれを改めようと心底から思うのではなく、いつものようにこの場だけやり過ごそうと思っているなら、もう通塾もしなくて結構と言いました。
子供は保護者の手前もあったのでしょうが(その場の面談に同席)「やります。反省してちゃんとやります。もう嘘は吐きません。本当です。ちゃんとやります」と言いました。
定期テストが近づいてきた時、私は次のテストに向けて彼に上に書いた三つの目標とするべき指標について何度目かの説明を言葉をかみ砕いて言って聞かせた上で、その日から向こう3日間でやる宿題を25ページ分課しました。
テストまで一か月の猶予があり、暗記することが致命的に苦手な彼でしたから、まずは英単語や理科や社会の暗記事項をこの一か月の前半2週間でしっかり押さえた上で、後半の2週間で応用問題に入るという作戦でした。
因みに、25ページを3日間というのは普通に考えればちっとも多くはないのですが、彼に限れば、その半分くらいでもやってくればよしという気もしていました。
4日目、やってきた彼に聞くと、胸を張って「やりましたよ。2ページ」。
「2ページ?なにそれ。1年生の子でももっとやってくるのに」というと、「その子はその子。僕は僕。僕にはできない」としらっと言います。
私が「2ページやるのに3日間の全てを使ったわけじゃないよね。あとの多くの時間をキミはどう過ごしていたんだ?」
彼は「部屋でごろごろしてゲームをしてました」
私は言いました。
「そうか、キミが”ちゃんとやります”といった、その”ちゃんと”というのはその程度なのか。自分で勝手に限界を設けて、そのぬるま湯の中でしかやろうとしないことを普通は”ちゃんと”とは言わないんだよ。結局そうやって目の前のことを誤魔化し誤魔化ししてきた結果が今表れているんじゃないのか?そんなやりかたで3つのポイントをどうしてクリアできるんだ?」
保護者の方はよく「子供がゲームばかりして」と愚痴をこぼします。でも、多くの場合、子供が家の中でゲームに興じていることを彼等の保護者が知っています。時には子供と一緒になって興じていることさえあります。その状況を改善しようとせず、口先だけ「勉強しろ」と子供に言い、学校や塾には「どうにかしろ」と言う、そのおかしさがどうにも言えない虚しさに変わります。
一部脚色しましたが、ほぼ実話です。
夏期講習プランに月3000円(税抜)/3日間 を追加しました。
一コマの時間を50分という細かさに設定し、夏期講習期間の平日14時から20時までの間の好きな時間に好きなコマ数だけ個別映像解説で勉強できます。
主な勉強ターゲットは、夏休みまでの苦手科目・苦手単元に特化した総復習にあります。映像そのものは、これを視聴して勉強する生徒一人一人に向いた講師によるものですので、一斉解説或いはマスプロ的な解説ではありません。
見終えたコマの後には理解度確認テストがセットされており、これが終わるとすぐにその場で採点できますので、そこで間違えた個所はもう一度解説に戻ることで理解度をより深めることが出来ます。
お申し込みは、サイトの夏期講習ページからできます。
ところで
以前この欄で、子供の勉強にマイナスの作用をする周囲の人間の例をいくつか書いたことがあります。
その一つに、親が自分のごくごく狭い世界限定の小さな経験でしかものを言わず、それが「自分の時はこうだった」「オレは出来た」などといった台詞になって子供に投げつけられること、があります。
そんな台詞は、たとえ100回言っても1000回言っても具体的な利益、或いは効果はありません。
そもそも「自分の時は」って、だから何なの?って話ですし、それで子供が「ははあっ、恐れ入りました」と言うとでも?
親が子供に「オレは出来た」って、あなたが東大でも出ているならその部分だけは認められるかもしれませんが、でも、例えあなたが東大出でも、あなたと子供は別の人格であって、その子に向かってしょうもない自慢等している時点で立派なキャリアも哀しき勘違いとさほど代わり映えしないのだと、なぜ分からないのでしょうか。
子供に勉強させたいなら、何(を言うこと)が子供をしてそうさせられるのかをしっかり考えて言うことが絶対に大切ですよ、本当に。しょうもないことを言ってプチ自己満足しているのではなく。