週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#103 -’19. 深川散歩と言ってもホンのホンの一部ですが。

2019年04月17日 18時50分40秒 | 日常の出来事(日記)
大江戸線の清澄白河駅へ。
個人的に清澄は有名ですが、何故に白河なる言葉が付いて清澄白河となったのか今回の訪問で気になりました。

歴史に疎い自分ですが、調べてみると勉強になりました。

街の記憶:清澄・白河周辺・・・江戸庶民文化と現代アート(マンションナビのコラム、建築家の染谷正弘氏)から引用させて頂きました。

清澄と白河、清く澄んだ白い河、なんとも素敵な街の名である。江東区清澄、白河周辺は、隣接する深川、木場、門前仲町も含め、江戸時代の頃より「深川」と呼び称され、いまも下町情緒豊かな水辺の街である。2000年に大江戸線「清澄白河駅」が開設、2003年には半蔵門線も乗り入れ、以来多くの人が江戸文化の面影を残すこの周辺に訪れるようになった。また、この周辺は、現代アートの情報発信源として注目を集めていて、日本の伝統文化も世界の最先端のアートシーンも楽しめる新しいエンターテインメント都市へと変容しつつある。
隅田川で江戸市中と一線をかくし、豊かな都市文化を育んできたのが深川周辺だ。徳川家康が江戸に幕府を開いて間もない頃、この隅田川河口一帯を開拓した深川八郎右衛門の「深川」にこの地名は由来するという。江戸市中のはずれに位置し、水運の要衝へと発展していくその立地環境が、活気に満ちたサブカルチャーを育む原動力となったのだろう。その象徴が、粋で気風のよいことで有名な辰巳芸者である。深川が江戸の辰巳の方角に位置することからそう呼ばれるようになった水辺の芸者衆は、江戸庶民の花となり、大江戸文化形成の一翼を担っていく。
清澄という地名もまたこの一帯を開拓した清住弥兵衛の「清住」に由来するという。それが、美しい水辺にちなんで「清澄」と改称されたのは昭和の初めで、「白河」という地名もその時に誕生している。18世紀末、幕府の財政難から緊縮財政や風紀統制を庶民の暮らしにまで厳しく強いたのが「寛政の改革」で、その立役者だった白河藩の松平定信の墓がこの地の霊巌寺であることが「白河」の由来だ

その浄土宗・霊巌寺に隣接して建つのが「深川江戸資料館」で、館内の展示室に足を一歩踏み入れれば、そこはもう江戸の下町の一画、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようである。白壁の蔵に火の見櫓、狭い裏路地には長屋が連なり共同の井戸も便所もあり、家々の中には家財道具が所狭しと並び、野良猫やカラスの鳴き声までもが遠くに聞こえ、それは臨場感たっぷりに江戸庶民の暮らしぶりを体験できる。

以下省略です。下線は自分が付したものです。

地下鉄の構内の壁に在った江東区深川江戸資料館の宣伝板です。
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可愛い猫は立体的に出来ています。
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MO+ 東京都現代美術館の案内図ですが、この日はお邪魔しませんでした。
この日は清澄白河駅~白河庭園~浄土宗・霊巌寺~深川江戸資料館~深川宿~同じ道を通り清澄白河駅に戻りました。
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深川江戸資料館に向かいます。
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出世不動尊(長専寺)の枝垂れ桜らしきものがありました。
道路を挟んだ右側は正覚寺です。
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既に出世うんぬんの年齢ではありません、お返しすべき年齢ですが、一寸だけ。
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浄土宗・霊巌寺に「寛政の改革」でその立役者だった松平定信の墓がこの地の霊巌寺であることが知ったしだいです。
歴史好きな家内とは大違いですが。
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地蔵菩薩坐像です。
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立派な本堂です。
この日はご朱印帖をじさんしませんでしたので、頂きませんでした。
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松平定信の墓は門で隔絶されて祀られていまいました。
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松平定信のお墓です。
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西暦1133年(長承2年)4月7日、浄土宗を開いた法然上人さまが、岡山県・久米南町に生まれました。
御幼名を、勢至丸さま(せいしまるさま)と申し上げます。
勢至丸さまの後ろに見えるのはれいがん寺幼稚園です。
幼稚園と勢至丸さまが並んでいるのも頷けます。
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粋ですね。
商い中だそうです。
何だとおもいますか?
外国人は入らずにスルーしてしまうかも。
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答え:公衆トイレ


江戸みやげ屋たかはしさんで深川めしを買ったついでに写真を撮らせてもらいました。
奥から南京玉すだれを持って来てくれました。
別名、中本工事さんです。
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お土産を買ってきました。
〆て1080円(一袋、540円)です。

コメント
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