古代ブログ 53 遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 <その1・2 再録>
古代の「ひのくまの」が無条件に現在の浜松の「ひくま 曳馬」というわけでもないのですが。
とくに古代から中世の「ひくまの」は現在の「曳馬学区」では、ありません。もっと南です。それと「三河」の「ひくまの」との関係が問題です。
これについては、さしあたり以下を参照。
「『落葉松』「第2部 文芸評論」 「「引馬野」の歴史的、地理的考察」
①から⑤ 2017年08月20日から08月24日に掲載
以下、再論
「2011年08月20日 05時23分10秒 | 遠州古代史
遠州古代史 浜松「曳馬(ひくま)」と古代の「檜前(ひのくま)」 その1
奈良県高市郡明日香村の大字檜前(ひのくま)は、朝鮮からの渡来人の里です。
朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)から、ここに移り住んだ人たち(当時は「朝鮮人」さえなく、高句麗人・百済人・新羅人・あや人・から人でした)は、「東漢(やまとのあや)氏」と呼ばれました。
よく古代朝鮮3国と言いますが、ぼくは「古代朝鮮4国」というほうが実態にあっていると思います。つまり、高句麗・百済・新羅の他に、朝鮮半島南端に存在した「から国」「あや国」と「倭国」をきちんと認識しないといけないと思います。
その「から国」「あら国」「南朝鮮の倭国」は、百済や新羅に圧迫されて滅んでしまう、とても悲しい運命の国々です。
だれか、この悲しい運命の人々を書いてもらいたいです。
つまり檜前(ひのくま)に住んでいた渡来人たちは、朝鮮南部の「あや」「あら」あるいは「かや」「から」と呼ばれていた土地から移住してきました。「移住」というより「追い出された」という方が事実に近いでしょうか。
朝鮮系の「あや氏」なのに、なぜ中国の王朝である「漢(かん)」の字を使っているかというと、同じ「から」の発音に「加羅」ではなく、中国の王朝である「唐(とう)」の字を使うのと同じで、8世紀の「日本国」の成立以後は、朝鮮よりも中国が先進文明であるとされ、朝鮮は「記紀」でも日本の従属国家として低い位置に描かれたこによるようです。
この「檜前(ひのくま)」と、浜松の「曳馬」をなぜ同一視できるかというと、この檜前(ひのくま)」から出た渡来人の坂上氏(さかのうえし)、とくに坂上田村麻呂さんが、この浜松でも伝説として残っているからです。
つまり、天竜川に住んでいた赤龍の女性と結婚して海を鎮めた坂上田村麻呂の伝説が、この地方にはいろいろ残されています。
もちろん、そういうメスの龍が実在したと言うことではなくて、そういう伝説を信じていた民族が浜松に移住してきたと言うことです。
それは南朝鮮の「あや」「あら」「から」「かや」からの渡来人で、ぼくは、その人たちは、三河から遠江に濃く移住して、その土地が「曳馬野」となったと思います。
以下、続きます。」
以下、「その2」再録
「2011年08月20日 17時48分39秒 | 遠州古代史
遠州古代史 浜松「曳馬」と古代の「檜前」 その2 江戸の檜前氏
森浩一さんの著書『地域学のすすめ』(岩波新書、2002年)の「関東学を提唱する」のなかに、浅草にいた檜前氏のことが書かれています。
「応永年間(1394~1428)の『武蔵国浅草寺縁起』」に「推古天皇の時代に、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)という兄弟がいて、隅田川の河口近くの海で魚を捕っていたときに、網で一体の仏像を引き上げた。それを土師(はじの)真中知(まつち)が調べてみると、観世音菩薩像だと分かったので、簡単な草堂をつくって祀った。その草堂が浅草寺の紀元であるという」。
森浩一さんは檜前氏の2人は必ずしも浅草の住民でなくてもいいとし、『万葉集』の二十巻の「4413」首から「武蔵国那珂郡」「檜前舎人(とねり)石前」という人を紹介している。
この那珂郡は、森浩一さんは、今の埼玉県美里町のあたり、つまり浅草から隅田川水系で80km上流としている。
朝鮮やヤマト・西日本から東日本へ移住するにしても,一カ所への「転居」というより船を使った「地域」内外、あるいは「小地域」内外の交流を考えないといけないということでしょうね。
つまり、海上交通が盛んな時代に,古代三河遠州地域では、今の愛知県東部と静岡県西部とは目と鼻の先で、直前の「三遠式銅鐸」の盛行からからいっても「一つの地域」として考えるべきではないかと思います。
つまり、同じような住民が住んでいて自由に交流していたのではないかと。
なお、ヤマト明日香の「檜前」は、『古事記』の「第28代宣化天皇」が「檜○(「土」偏に「向」)庵入野宮に座し」とあります。『古事記』に「ひのくま」が出てくるのはここだけのようです。」