雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月21日(火) まだ暑い昼間、取りに行く日を…

2010年09月22日 05時37分37秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(火) まだ暑い昼間、取りに行く日を…

 夜は涼しくなってきました。真夜中の仕事ですので、長袖シャツにするか、長袖の上着を持って行かないと、風邪を引きそうです。
 体温調節には気をつけましょう。

 今日は、午後起きて、なぜそう思ったのか、わからないのですが(手帳には、ちゃんと「22日」に記入してあるのに)、思い込んでしまい、浜北の診療所に「今から、第五福竜丸の写真パネルをもらいに行きますので、よろしく」と電話しました。

 あいにく、責任者のYさんが出かけていたので、よくなかったんですね。
 「30分後くらいに行きますので」と言づてをお願いしました。
 
 夜になって、仕事から帰ってきたN子さんに「写真パネル、もらってきたからね。今夜、借りた先へ発送する?」と言ったら、ものすごく変な顔をしました。
 え?なに?
 ぼく、ちゃんともらってきたのに、なに?と思ったら。

 N子さん「もらいにいくのは明日でしょ?」とカミナリが落ちました。
 え?!
 うわ!
 ということで、ぼくの失態。しばらくはN子さんから信用されませんね。
 

遠州の遺跡・寺社29 中区寺島町の八百(やお)神社

2010年09月22日 05時13分12秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社29 中区寺島町の八百(やお)神社

 現在地は中区寺島町222番地です。
 駅南の大通りのサークルKから東に位置しています。

 神社の向く方向は東南です。
 つまり、冬至の太陽神を拝んでいるということでしょうか。
 もっとも道路の方向に沿っているだけという可能性もあると思います。

 祭神(さいじん)は、現地には書いてなくて、手持ちの『浜松市神社名鑑』(1982年発行)の47ページでは、「国狭槌命(くにさづちのみこと)」と家康さんです。

 国狭槌命さんは「古事記」には出てこなくて、「日本書紀」に出てくる、神代の二番目の神様です。
 それがどういうことなのか、今の私にはわかりません。研究します。

 『浜松市神社名鑑』には「古来より水の神として霊験あらかたであることは言うまでもありません。」と書いてありますが、私は初耳でした。
 すみません、常識がなくて。

 祭神と神社名「八百(やお)神社」との関係も、わかりません。

 「八百」は、やっぱり日本列島の「八百万(やおよろず)の神」の「八百」と関係アルのでしょうか。
 1万分の1ですけど。

 なお、この神社は、当初はこの位置ではなくて「本年(つまり1982年)八月二十八日浜松駅南口道路拡張のためやむなく現在地に新築移転しました。」(p47)と書いてあります。


 

 
 

雨宮日記 9月19日(日)の2 ボクの「奥さま」でした

2010年09月21日 05時00分02秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月19日(日)の2 ボクの「奥さま」でした

 ある日、ある場所のみんなで木を切る里山へ、たぶんぼくら2人だけ少し遅れていったので目立ったのですね。
 とくにN子さんは、つば広の麦わら帽子で、細身で白い服で(もちろん作業用のズボンでしたが)、とても「作業向き」には見えないのでしょうね。

 ある男性Aさんが「奥さん、無理だよ、やめときな」と言ったので、ぼくは「えっ?奥さんなんか、いたっけ?」とそっちを見たら、N子さんが、切り倒した杉の木の皮むきをしようとしていました。
 
 そうかあ、見かけは、か細い「奥さま」に見えるんですね。
 世の男どもは、見かけと中身がどんなに違うか、わかってないんだなあと納得しました。

 同時に、10年以上つきあいのある地元の農民のBさんが、N子さんといっしょに作業をしてくれて、途中からの皮むきをまかせてくれるのが印象的でした。
 あ、Bさん、さすが、この間のいろんなことがあって、わかってるな、と安心しました。

 力があろうとなかろうと、男女も含めて、みんな平等で、力を合わせる世界を築きたいなと思います。

 ところで、わが「奥さま」ですが、昔、30数年前にボクが自営の本屋でいたときに結婚したころ、「奥さん、どこにしまっているの?ちっとも顔を見ないけど」と近所の人に言われたことを思い出しました。
 「奧にしまってあるんじゃないですよ。昼も夜も、家にいたことがないんです」

 

 

雨宮日記 9月19日(日) 里山でみんなで杉を切って橋に

2010年09月20日 04時33分40秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月19日(日) 里山でみんなで杉を切って橋に

 里山の橋を建て替えることになり、そのために里の家の裏山の杉を切って、柱を橋にすることになりました。

 すこし涼しくなってきたので、里の家にみんなで集まって、地元のお二人の指導で、2本の杉の木を切って、皮をむいて柱にしました。

 女性は3人、男性10人の13人で、みんなで木を切り、皮をむいて柱にして、それを何本かにぶったぎってから、坂道を柱にロープをつけて、みんなで必死で引っ張りました。

 N子さんも、ぼくも、何人かの人も「杉の皮むき」初体験で「こりゃ、0.3人前くらいだね」なんて言われながら、お手伝いをしました。

 なにしろ、一つ間違えば、崖から転落しかねない坂道ですので、大変でした。
 何回か、柱に打ち込んでロープと結んだくさびが抜けて、ずっこけましたが、だんだん慣れてきて、太いのと細いのと4本を橋まで運びました。

 橋まで運んでのぼくの感想は「この太さなら橋にはもったいないですね。この2本は鳥居にして、橋の前に立てたらどうですか?」と言うと、誰かが「そうだ、鳥居の前にお賽銭箱をおいて、みんなここに来るたびに小銭を投げ込むんだな」と。
 グッドアイデアですね。

 汗だくになって、3本目を運び終えたら、ときどきなる耳鳴りになってしまっrたので、リタイアしました。
 日頃は、重量100グラムくらいの物を持ち運んでいますからね。

 N子さんは、途中で合流したKさんと里の家の前を鎌で草刈りをしました。いましている昼間の仕事は事務労働なので、今日くらいの肉体労働はちょうどいいようです。

 これから1ヶ月半くらい乾燥させてから、橋のかけ直し工事になります。

 ずっとオーシンツクツク、オーシンツクツクとツクツクボウシが哀しげに鳴いていました。

 作業を終えてみんなで休んでいたら、誰かが「タカが向かいの森の、あそこの枝にとまった」と言うので、里の家の中から地上用の望遠鏡「ブロミナー」を出してきて、みんなで見ました。

 何人かいてくれる鳥類の専門家は「たぶんサシバだろう」という結論でしたが、みんなでかわるがわる、望遠鏡をのぞいて、視野の中に「あ!こっちを向いた」とか、大騒ぎしました。

 鷲鷹類がいるというのは、健全な生態系なんですよね。

 この里山とつかず離れず10年以上つきあってきたボクやN子さんの感覚で言うと「里山の再出発の1日」となったと思います。
 すてきな日でした。
 この日をつくった13人のみなさんに、心から感謝いたします。


 

雨宮日記 9月18日(土)の2 浜松市への音楽ホール要望

2010年09月18日 23時07分16秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(土)の2 浜松市への音楽ホール要望

 直前記事の「遠州古代史ニュース 9月10日 「浜松市史 通史編」を」の続きです。

 雨宮が国民大運動実行委員会の浜松市への要望で提出した項目の2です。

 要望【50001-23】
 浜松市内に、小編成で使える、音楽専門の小ホールを建設してください。

 生活文化部 文化政策課の回答

 音楽専門の小ホールは、全国的にも少なく、浜松市では、多くの市民の皆様が利用できるよう、公共のホールはすべて多目的ホールとしていますことから、今後、音楽専門の小ホールを建設する計画はありません。
 しかしながら、アクトシティ浜松の音楽工房ホールや浜北文化センターの小ホールなどは、コンサートなどを開催するための充分な機能を備えておりますので、ご利用いただきますようお願いします。

 音楽専門の小ホールが県内や全国的にどれくらいあるのか、調べたいと思います。

 うーん、みなさんはどう考えますか?
 「多くの市民の皆さまが利用できるよう、公共のホールはすべて多目的ホールとしています」という方針だそうですが、それで、どうして「楽器の街」「音楽の街」なんでしょうか?
 

遠州古代史ニュース 9月10日 「浜松市史 通史編」を

2010年09月18日 22時54分35秒 | 遠州古代史
遠州古代史ニュース 9月10日 「浜松市史 通史編」を

 雨宮は自分の所属する団体の一員として、毎年秋に、「国民大運動浜松実行委員会」がおこなう浜松市との懇談に要望を提出しました。
 
 回答はワード文書ふぁいるで70数ページにわたります。

 この懇談は、毎年、市民の要望を諸団体で集めて文書でまとめて浜松市に提出し、浜松市からの文書回答を受けて、秋に直接、部長さん・課長さんのみなさんと、4つの分科会で午後3時間をかけて懇談をおこないます。

 そこで提出したわたしの「要望」と浜松市の文書回答を紹介します。

 要望 【50001-6】 

 浜松市政100周年を記念して、戦前編までしか出ていない『浜松市史』の通史を現代の研究結果に基づく新たな通史として原始古代から現代まで編集し発行してください。

 「浜松市生活文化部 中央図書館」よりの回答

 昭和期刊行の市史は、昭和32~38年発行の『浜松市史 史料編一~六』の6冊と昭和43~55年発行の『浜松市史一~三』(通史編)の3冊の計9冊です。これら既刊市史での記載・記述は、史料編は明治の前期(浜松県の史料)までで終っており、通史編は昭和20年8月15日で終了しています。
 戦後も60年以上を経過したこともあり、現在、浜松市ではこれら既刊の市史を補うべく新たな『市史』を編さん・刊行しております。

 刊行中の新編『浜松市史』は、平成16年末現在の浜松市域を対象に、明治期からの史料の発掘とともに、戦後の通史編を編さん発刊する計画です。
 このうち史料編は明治期~平成16年末までの史料を対象としたものを、平成21年度までに『新編史料編一~六』として6冊を刊行済です。
 通史編につきましては、今後、既刊通史に引き続く戦後編(昭和20年8月16日以降)として、平成16年末までを記述対象とした『浜松市史四・五』の刊行を計画しています。
 このため、ご要望の「新たな通史として原始古代から現代まで編集し発行」することは考えておりません。

 以上が要望と回答です。
 浜松市さんが回答していただいたことには感謝いたします。
 でも、内容的には不十分だと思います。

 みなさんのご意見をお寄せください。
 お寄せいただいたご意見は、まとめて浜松市に届けます。

 私の意見ですが、要望では長くなるので書いていないのですが、12市町村が合併した「新浜松市」という地域の新たな歴史を書かないと、旧浜松市の「市史 全3巻」に接続した歴史では体裁も整っていないと思います。

 あらたな新浜松市の100年という大きなスパンで、原始・古代・中世・近世・近代・現代をとらえなおした「新浜松史」が求められていると思います。
 いかがでしょうか?

 


雨宮日記 9月18日(土) 目が充血して午後は休憩…

2010年09月18日 22時24分52秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(土) 目が充血して午後は休憩…

 今日の午後は、N子さんといっしょに、映画「アンダンテ 稲の旋律」実行委員会に出る予定でした。
 前回は一人で行きましたが、今回は念のため、守護女神のN子さんにお守り代わりについてきてもらおうということです。

 午後1時頃に起きて、シャワーを浴びようと、1階へ降りて台所に行ったら、N子さんが「智彦くん!どうしたの?目が充血して真っ赤!」と言いました。

 慌てて鏡を見ると、たしかに目の中が充血しています。
 N子さんが「心配だから、家で休んでいてね。私が行ってくるから」というので、午後は家で休んでいました。

 夕方N子さんが帰って来たようなので、下へ降りていくと、ぼくの間近で目をジッと覗き込んで…(最近は、そういうシーンがめったにないので、なんだかドキドキ…)言うのは「よかった。治ってる。なんだったんだろ」と。

 仕事も体もここ数日、ひどかったことはないし、通常通り、もしあるとすれば、思い当たるのは、あれかな?
 精神的疲労ですね。
 まあ、とにかく、無理をするなとの天の警告でしょうか。
 はい、気をつけます。

 写真は、のんびりするために行った喫茶店での夕食「オムカレー」です。
 おいしかったです。
 もし食べたい方は、雨宮まで問い合わせてもらえば、場所と店名をお知らせします。

本と映像の森83 木野玉枝さん『久留米木に小さな学校が…』

2010年09月18日 06時02分35秒 | 本と映像の森
本と映像の森83 木野玉枝さん『久留米木に小さな学校がありました』JRP・日本リアリズム写真集団出版局、2010年9月1日、定価1500円+消費税

 N子さんが平和の仲間からいただいた1冊です。
 浜松市の北部、北区引佐町久留米木の「久留米木小学校」が今年の3月31日で閉校になってしまいました。

 木野さんが、数年間にわたって、この小学校や子どもたちを撮影した、生き生きとした記録の写真集です。

 一番印象的なのは、自然の中で、生き生きとした表情の子どもたちです。

 ぼくの娘のiさんも、こういう素敵な学校なら、不登校にはならなかったかな、と思います。
 どうでしょうか。

 

雨宮日記 9月17日(金) ゴキブリ1匹で大山鳴動する秋

2010年09月18日 05時37分30秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月17日(金) ゴキブリ1匹で大山鳴動する秋

 夜、長女のTさんとN子さんの部屋で、大騒ぎしているので、何かと思ったら「ゴキブリが出た!お母さん、やっつけて」というTさんの悲鳴でした。

 むかし、北海道から浜松に来た人が、北海道にはゴキブリさんが居ないので「ぎゃあ!怪物が出た」と大騒ぎという実話を体験しました。

 今の清潔な家には、ハエさんもいないし、むかしは「天井で運動会をしていた」ネズミさんもあまり姿を見せないし、どうなんでしょうか?
 むかし、松城町の家で引き出しを開けたら「ネズミさんの死骸」が出てきて、大騒動した記憶がありますが。

 あいにく、我が家の「はえたたき」がどこかへ逃亡してしまって。いや「はえ叩き」自体が、そもそも死語でしょうか。
 カーマとかいけば「はえ叩き」は売っているのでしょうか?
 娘達に「ごきぶり駆除」の心を疑われないように、すぐに買いにいかないとね。

 ゴキブリさんの写真は撮影する気もしないし、素早くて撮れないので、今日は写真なしです。

 むかしと違って、ゴキブリさんの「ごきぶり密度」も減っているのではという気がしますが。
 どうでしょうか。

 ゴキブリさんは、どうやって寒い冬を越すんでしょうか。
 越冬するためにがんばるゴキブリさんに、エールを送ったりはしませんが、興味があります。
 方法がわかったら、全力で阻止したりして。


雨宮日記 9月16日(木) コオロギの声が愛おしい秋

2010年09月18日 05時15分03秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月16日(木) コオロギの声が愛おしい秋

 リーリーリーリーとメスを求めて鳴き続けるコオロギのオスの声が愛おしい秋です。
 今、パソコンを叩いている我が家の2階の外のすぐ近くで、リーリーリーとずっと永遠に鳴き続けているので、たぶんツヅレサセコオロギです。
 一番大きいエンマコオロギは「コロコロリーリー」で、ハラオカメコオロギは「リリリリ、リリリリ」だそうです。
 
 夜はだいぶ涼しくなって、昨日くらいから、夜の仕事の時に長袖シャツにしました。寒いと風邪を引いてしまいますから。
 といっても、昼間はまだ暑いです。
 この昼と夜の差で、体調を崩さないようにしたいと思います。
  
 とくに、昼間、冷房を強くかかっていると、変になるので、この時期は、注意して必ず上着を持ち歩くことを心がけています。
 
 まだ泣いていますね。
 「リーリーリーリーリー………」
 がんばれ!♂くん!
 彼女は来るんでしょうか?

 写真のコオロギは、上島2丁目で撮影しました。




本と映像の森82 『めぞん一刻』の管理人・音無響子さん

2010年09月17日 05時17分59秒 | 本と映像の森
本と映像の森82 『めぞん一刻』の管理人・音無響子さん

 ついこのまえ「雨宮家の管理人さん・N子さん」と書いたので、なんとなく、追憶で、1980年代の名作マンガ「めぞん一刻」のメイン主人公である音無響子さんと、サブ主人公である五代裕作さんのことを思い出しました。

 「本と映像の森」評論の体裁になっていませんね。マンガの主人公の話なんだから。

 雨宮の大好きなマンガです。
 大好きという意味は、もちろん、年上のまじめな女性のメイン主人公と、年下のどっちかというとはちゃめちゃ、世間に適応していない男性サブ主人公が愛し合って、結婚しちゃう話ですから。
 
 無理矢理ですが、響子さんと五代の関係は、N子さんと雨宮智彦の関係に等しいと言うことでしょうか、たぶん。

 響子さんが「頼りない弟をもった気分よ」とつぶやくシーン(正確じゃないですが)で、わかりました。
 ぼくは、N子さんのたよりない弟なんだ!たぶん
 はい、ごめんなさい。
 でも、そんなこと、なるべく、直接言われないように、がんばろうと思います。

遠州の遺跡・寺社28 中区鴨江の須佐之男神社

2010年09月16日 04時56分25秒 | 雨宮日誌
遠州の遺跡・寺社28 中区鴨江の須佐之男神社

 やっと昼間でも外出できる気温になってきたので「遠州の遺跡・寺社」探訪を再開します。

 中区鴨江2丁目12-16で、位置的には浜松市保健所の南にあります。
 むかし合唱団美樹にいたころに通った尾高ビルから西へ入っていきます(ローカルな話題でごめんなさい、美樹のみなさん、スサノオ神社なんて知ってました?)。
 
 何気なしに行って、まずびっくりしたのは「御祭神」が「須佐之男神命」と「木花咲耶姫命」となっていることです。
 記紀の日本古代伝承(ぼくは「日本神話」という用語はやめました)では、コノハナサクヤ姫は、出雲に下ったスサノオさんとは別系統の、九州に行ったニニギの妻となった女神です。
 ところが同じコノハナノサクヤ姫伝承は、この地域では富士山伝承とからんで名前が出てきます。
 つまり、この須佐之男神社でいうコノハナサクヤ姫は、日本列島の土着神のオオヤマツミ神の娘としては同じ名前でも、同性同名の違う信仰圏の姫神と解釈すべきではないでしょうか。
 このことは別途、詳しく考えたいと思います。火山信仰の浅間信仰ともからんできますので。

 境内は、浜松市の「保存樹林」になっていました。
 神社が「パワースポット」という新たな現代信仰がおきているようですが、神社の自然の森の凄烈さを感じるぼくとしては、唯物論者として同感します。

 おもしろいのは保健所の北を通っている広い道路から、須佐之男神社に上っていく坂が「地獄坂」ということです。
 これは、単に、急角度なので登るのに「地獄」のようにきつい、という意味なのか、それともスサノオさんがいた「根の国」と関係有ることなのか、どっちでしょうか?

 スサノオさん(気安く「さん」ずけにするな!といわれそうですが)のすごいところは、やはり、日本列島に(たぶん朝鮮から)やってきて、「朝鮮には金銀があるが、日本にそういう宝がないのはよくない」と言って、自分のヒゲを抜いて杉にして、胸毛を抜いてヒノキにして(あの方ですよ「胸毛ふさふさ!」)、お尻の毛をマキの木にして、眉毛を楠の木にしました。
 そして、杉とヒノキは船に使え、マキの木はお墓の棺ををつくれ、楠の木は宮殿につかえと教えました。
 
 古代の用材を調べていくと、実際、そのとおりなのですね。なぜ、どうして、そうなのか、別途考えたいと思います。
 (志村史夫さん『古代日本の超技術』ブルーバックス、講談社、1997年)

 

雨宮日記 9月14日(火)の2 変なリンゴ売りも発生

2010年09月15日 05時27分50秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(火)の2 変なリンゴ売りも発生

 そうめったに、夕方、2人とも家にいるという事態は、なかなか発生しないのですが、珍しく、N子さんもぼくもいたので、安心して、夕食のあと、2階の自分の部屋へ行って寝っ転がっていました。

 なんだか、はるか遠くでN子さんの声が呼んだような気がして、ふらっと起きて、1階へ降りて行きました。

 N子さんが「変な人がいて、帰らないの」というので
 「え?なにがへん?」
 「リンゴを買えというの」というので。

 玄関の、涼しくするために少し開けてある向こうにいたその「リンゴ売り」さんと対面しました。
 細身の日焼けした30代?くらいの男性。
 一目見て、うわ、なんか目が据わっている、正常じゃない感じ。やばい!
 
 「なんですか?」とぼくがおそるおそる言うと
 「そんなことに答える義務はないと言うなら、帰りますけど」と言うので
 「そんなことに答える義務はないです」と言ったら、あっさり、西へ歩いていきました。
 ああ、よかった。

 たぶん、気の弱そうな女性だけだったら、どこまでも居座るのではと思いました。
 「買うまで帰らない」と。

 西へ行ったので、心配になって、外へ出てみたら、ちょうど2軒先のご主人が外に出ていたので、N子さんが聞きにいったら「ああ、来たよ。買うお金はないよ、と言ったら帰った。変なやつだったね」と。

 異常気象で変なオコゼやチャドクが発生するように、人間社会でも、かなりやばい人間がいっぱい発生するんでしょうね。
 ああ、やだ、やだ。
 
 うれしかったのは、N子さんの一言「智彦くんが(珍しく)いてくれて、よかった」ですね。
 金も力もないぼくでも、その存在が、愛するN子さんの役に立てば、ちょー嬉しいです。

 
 

雨宮日記 9月14日(火) 楠の木の葉っぱにイラガの幼虫が

2010年09月15日 05時18分29秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(火) 楠の木の葉っぱにイラガの幼虫が

 雨宮家の、ネコのひたいのような狭い、狭い土地にただ1本植えた楠の木。

 今年も、その楠の木の葉に、イラガの幼虫の通称「おこぜ」がとりついて、雨宮家の管理人さんのN子さんの悩みの種です。
 (最初「雨宮家の庭の管理人さん」と書いたけど、訂正します)
  
 増えるだけなら、「気持ち悪い」ですむのですが、毒があって、刺されると何日も痛むのです。

 おこぜに同情するわけではないですが(へたに同情したりしたら、ぼくが駆除されますので)、やはり何か、暑さもありますが、生態系の異変ではないでしょうか。

 何日か前に「ごみかん」の会員の方から電話があって「ちゃどくがの幼虫が大発生して困っている」という話でした。

 N子さんは、おこぜをみるたびに、必死でたたき落として退治しています。

 N子さんに、ぼくが撮った写真を見せたら「智彦くん!このオコゼ、つぶしてくれたんでしょうね!」というので、「うん…それは…まあ…」とごまかしておきました。



本と映像の森81 青山透子さん『天空の星たちへ』マガジンランド

2010年09月15日 04時35分53秒 | 本と映像の森
本と映像の森81 青山透子さん『天空の星たちへ ー日航123便 あの日の記憶ー』マガジンランド、2010年5月10日初版、447ページ、定価1429円+消費税

 著者の青山透子さんは、1985年当時、日航の客室乗務員でした。日航123便に乗っていた客室乗務員は、みんな青山さんの先輩たちでした。

 「愛情と怒りが交錯する衝撃のノンフィクション」。

 そう、読んでわかりましたが、単なる後輩シュチュワーデスの追憶記ではありません。

 まるで、ダンテの「神曲」のような、地獄めぐりの記録でした。
 こんな勇気のある人が、中世フィレンチェではなく、21世紀の現代日本にいるのかと、感激しました。
 
 非常に衝撃的なのは、まず第1に、巻頭カラーグラビアの4ページに掲載された乗客が、窓の席から外を写した写真です。
 何が写っているかは、みなさんの自分の目で確認してください。
 著者は写真に解説をつけていません(わざと、一人一人の目で確認してもらい、先入観を与えないように開設していないんだと思います。)
 ぼく、雨宮は、これが何かは、はっきりしていると思います。
 (その後、追跡記事が週刊現代で出たそうです。いま、手に入れる作業をしています)

 2番目は、青山さんがインタビューした、あの事故当時に死体を検分したお医者さんの話です。
 「二度焼かれたような状態」「骨の奧まで炭化」。

 青山さんの本の402ページに、散乱した機体と遺体の見取り図が掲載されています。私は、こういう図を初めて見ましたが、実は、4人の生存者は、みな機体の後部にいて、主な炎上箇所である南斜面と北西斜面とは異なる、北斜面に、機体が分解してすげの沢をずりおちて、かなり離れた場所だったのですね。
 
 つまり、最初の夜間の空からの捜索者にとっては、すげの沢の機体後部は目にとまらず、炎が見える南斜面と北西斜面だけが見えたという可能性が高いわけです。

 もし、それが実は、生存者と死者の境を決定したのだとすれば?
 ものすごく怖い想像ですが。
 
 広島・長崎に原爆を投下するために、原爆投下を間に合わせるために、必死で天皇制容認を日本政府に伝えず、日本の降伏を引き延ばしたような戦争犯罪の起きる20世紀です。
 妄想と、笑うことはできないでしょう。

 証拠がでてくるか、わかりませんが、もう少し事実を調査して、可能性は調べていきたいと思います。
 
 それにしても「愛と怒り」です。

 「本と映像の森80 米田憲司さん『御巣鷹の謎を追う』宝島社」を紹介しましたが、1冊だけではなく、何冊かを比較して読むと、自分にとってのほんとうの真実が浮かび上がってきます。
 ほんとうは、浮かび上がってきたものと対面したくありません。
 吐き気がします。
 人間のおぞましさに。

 でも、やっぱり、1985年8月12日のあの時、何も知らずに亡くなった人たち、1945年8月6日と8月9日に、何も知らずに苦しんで亡くなった人たちに成り代わって、ぼくたちが発言していかないといけないんだろうなと、思います。

 ぼく「N子さん、そうだよね?」
 N子さん「そうだよ!いつも真実だけを求めてきたんだからね」

 書ききれませんね。
 わかりにくい点は、浜松の仲間の方でしたら、詳しくお話ししますので、ご連絡ください。