雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森76 村上龍さん『無趣味のすすめ』幻冬舎

2010年09月04日 05時29分44秒 | 本と映像の森
本と映像の森76 村上龍さん『無趣味のすすめ』幻冬舎、2009年3月25日第1刷、233ページ、定価1200円+消費税

 活字は大きいので、定価に対する文字は少ないです。費用と効果を絶対視する浜松行革審の委員の方だったら、最初から買わないかも…。
 でも、文字の多さと、内容の濃さは違うと思います。
 内容は濃いので、ぼくはいい本だと思います。

 たしか、去年、本屋さんに行って「本を探す散歩」をしていたときに、手にとって買ってしまった本だと思います。

 たとえば「無趣味のすすめ」で「趣味は老人のものだ」「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない」「つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない」
 それは共感します。
 「雨宮智彦」ブログは、59才の中年の趣味ではなく、雨宮とN子さんの2人のリアルな人生そのもの、仕事(賃金労働ではないけど)そのものです。

 それから、いちばn感じたのは「集中と緊張とリラックス」です。

 村上さんは、集中と緊張は違う、集中はリラックスだといいます。そして「集中するためには、リラックスが必要であり、かつ自覚的でなければならない」と言います。
 ぼくもそう思います。

 たとえば音楽の演奏に必要なのは集中ですが、それは同時にリラックスして、自分だけの意識ではなく、聴衆の意識まで入り込んで、客観的な自分が見えていなければ、いい演奏はできないと思いますが、どうでしょうか。

 緊張するとは、自分が収縮して、小さな自分1人だけになってしまった状態でしょうか。
 集中するとは、リラックスして、自分を解放して、自分とみんなの客観的な状態が、広く見える、あるいは感じる状態でしょうか?

 雨宮は、N子さんに「自分の意識を広く遠くまで投げて…宇宙の彼方まで、あるいは遠い未来までクリアーに見える状態になれば、解放されている、ということかなと思うけど」と言いました。
 どうなんでしょうか?
 「緊張する」というのは、自分の肉体の範囲内に意識が限定されてしまう状態と言うことかな。
 
 

雨宮日記 9月3日(金)朝 共同作業・ぐち聞き・文書訂正

2010年09月03日 05時19分45秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月3日(金)朝 共同作業・ぐち聞き・文書訂正

 えっと、9月3日(金)の朝に、これを書いています。
 朝5時ごろ、仕事から帰ってきたら、N子さんと長女のTさんの部屋で、Tさんのセキが聞こえました。
 だいじょうぶかなあ。長女のTさんは歯医者さんの事務員で、次女のIさんは本屋さんの店員で、対面接待の仕事なので、感染病が心配なんですよね。
 (父親としては、母親とは違って、いっさい、そんな心配のけぶりも見せませんが)。

 昨日は、N子さんは、午後5時までの勤務から午後6時頃に家に帰ってきて、食事をつくって、ぼくの父親(87才)と次女のIさんと4人で夕食を食べてから、二人である会議へ行きました。
 行く車の中で(車の運転はぼくです)、昼間の話をいろいろ聞いて、ぼくが必要なコメントをして、N子さんの言うには「智彦くんが聞いてくれるから。これは今日限り。明日はリセットして出勤するから」
 ということで、ぼくでもまあ、なんとか、役に立っているんですね。うれしいな。

 会議のあと、ある団体の機関誌をいっしょに地域へ配達。
 家へ帰ってから、別の団体のニュースの発送作業をいっしょにしました、
 
 ぼくは深夜勤務の仕事へでかけて、帰って来たら、階段に「会計報告の最終訂正をしてください」と書いてあったので、パソコンで訂正をして、印刷しました。

 まあ、こういう形で、N子さんの役に立てば、ぼくとしては、嬉しいです。

 「なんにもしなくてもいいよ」って言われたら、みなさん、寂しいでしょ。
 何にもしなかったら、確実に、認知症になっちゃいますし。

 「智彦くん、これをして!あれをして!」というのが、ぼくの幸せです。
 突然、どんなことをN子さんに要求されても、それに応えられるように、企画・準備をしておくのが、ぼくの歓びです。


雨宮日記 9月2日(木) 早朝の空「冬の蝶座」「ムササビ座」

2010年09月03日 05時02分50秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月2日(木) 早朝の空「冬の蝶座」「ムササビ座」

 タイトルを見ただけでは「何のこっちゃ」「映画館の名前か?」と思われそうです。
 今日の早朝、まだ夜明け前の東の空に、上ってくる星座の名前ですが、もちろん、万国共通のではなくて、日本独自の星座でもなくて、ぼくが思いついたというだけの星座です。
 つまり「ぼく一人の星座」、「世界でただひとつの花」じゃなくて「世界でただ一つの星座」です。
 いいでしょう?
 雨宮智彦が最愛の妻N子さんにささげる「冬の蝶座」です。「ムササビ座」は捧げてもいやがられそうなので、自分に献呈しておきます。

 前に書いた気もしますが「最愛の妻」というと、イスラム世界みたいに多彩じゃない多妻でで、「最愛でない妻」もいるみたいな語感ですが、生涯、女性はN子さんただ一人ですので、誤解なきように。

 さて、問題は「冬の蝶座」と「ムササビ座」は、現行のどの星座でしょうか?答えは皆さんが実際に、今週の早朝、まだ暗いうちに東の空を眺めれば、回答が出ると思います。
 正解をコメントやメールで送ってくださった方には、何か、記念品をさしあげます。

(追記)カテゴリーが「本と映像の森」になっていたので、修正しました(9/4)。

 

雨宮日記 9月1日(水)の2 ブログのメール設定できました

2010年09月02日 05時44分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月1日(水)の2 ブログのメール設定できました

 雨宮ブログを始めたのが昨年の11月9日です。やっと10ヶ月です。

 とにかく、パソコンにしろ、メールにしろ、ブログにしろ、すべてわかって使うのではなくて、自分の必要に応じて、わかればいいという適当さなので、わからない機能がいっぱいあります。

 ずっと「どうして、ブログを見た人が直接メールで連絡できる機能がないのだろう」とぼんやり疑問でしたが、つい数日前に、その疑問が解けました。

 ぼくが使っている「グー」ブログでは、メール機能が「メッセージ」という名前で設定されているのがわかりました。
 うわ、なんという大発見というか、うかつさ。
 バカでしたね。

 それで昨日くらいに「メッセージ」機能を追加して、メールが届くようにしました。
 みなさん、直接、雨宮にメールをくださいね。
 もちろん、公開していいものは、コメントでくださってもけっこうです。
 

雨宮日記 9月1日(水) 繊細さとストレスと関東大震災

2010年09月02日 05時10分59秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月1日(水) 繊細さとストレスと関東大震災

 次女のIさんが、夕食時に「お母さん、昨日、賞味期限切れの肉を使ったでしょ?」というのでN子さんが「どうかしたの」と聞いたら「私、下痢になった」と言いました。
 母親のN子さんは「賞味期限切れても、調理すれば食べられるから、気にしなくても、だいじょうぶよ」と行動主義の人らしく、とんちんかんな回答でした。
 まあ、そういうアバウトな(ぼくとは大違いな)ところが、ぼくは大好きなんですけどね。
 ぼくと同じだったら、お互い、夫婦として耐えられませんですからね。

 ああ、遺伝なのか、ぼくと同じような細い神経(笑い)なんだなと思いました。
 昔から何か重要な行事があって、発言しなければいけなかったりすると、てきめんに、前日くらいから、ひどい下痢になるのが通例でした。

 ぼくは詳細な未来予測をして、ああなったらこうする、こうなったらこうすると、いう想定をぜんぶしますから。
 たとえば、N子さんと結婚前のデートだったら、あの喫茶店で話をして、そのあとあの公園のあのベンチに座って、さりげなくキスをして…というようなプログラムをぜんぶつくります。
 そうすると、緊張しちゃって、下痢になるんですよね。

 結婚してからは自分が演出と主役ではなくて、N子さんや他の人を主役にして、自分は裏方の演出・監督に回るようにしてから、そういうストレスは少なくなって、とってもいい人生になりましたね。
 主役女優をしてくれるN子さんや、他のみなさん、ありがとう。

 Iさんは「私は繊細なんだから」とプンプンしていました。
 Iさん、繊細でない人に、そう言っても応えないよ。
 父親似ということですね。

 で、今日は関東大震災の日です。
 マンガ『日本沈没』のたぶん第6巻で、「第2次関東大震災」と恐怖からの住民自警隊による虐殺が描かれますが、これは「第1次関東大震災」の事実とは違うと思います。
 国家権力や団体が関与すると、いろんなことが個人的考えを越えて準備され、実行されると言うことを見逃しているのではないでしょうか。
 個人の恐怖や心配を、国家や団体がいかに増幅して利用して、そういう大虐殺に至るか、これについては、別途、きちんと書きたいと思います。

 
 
  
  

雨宮日記 8月31日(火)の2 暑い秋、涼しい秋

2010年09月01日 07時14分00秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月31日(火)の2 暑い秋、涼しい秋

 妻のN子さんは、8月1日から冷房のきいた事務所に勤務しています。
 むかしの保育の仕事や、以前の介護の仕事と比べれば、肉体労働が減って、精神労働になっています。
 だから、体がなまっているでしょうと、できるだけ、夜、やっと涼しくなった馬込川の散歩にも誘っています。

 昨夜は、N子さんと同じ部屋にいる長女のTさんも彼氏のところに行っていなかったので、ちょっと期待してみました。
 
 N子さん「体操とかしないと」
 ぼく「ぼくと一緒に体操しようよ」
 N子さん「暑いから、いや」

 はい、まだ暑い秋でした。
 早く、涼しい秋になりたいな。

 

人間・心・集団の学習8 会議は何によって決定しますか?

2010年09月01日 06時40分37秒 | 雨宮日誌
人間・心・集団の学習8 会議は何によって決定しますか?

 団体や組織の会議で、いったい何を基準に決定するのか、考えてみました。

 科学の基準で言うと、研究調査や実験による事実と論理によって決定するのであって、多数決採択の余地はないのでしょうと思います。

 芸術・文化的基準で言うと、できるだけ感覚が優秀な人を選んで、その人の感覚で芸術的な判断をしてもらうので、この場合も多数決判断の余地はないのではないでしょうか。
 たとえば、映画を監督が決めるのではなくて、関係者の多数決会議で完成させたら、それは、たぶん、支離滅裂な物になるでしょうね。

 では、社会運動などで、科学や芸術の部分を除いて、何が、多数決決定の対象になるのでしょうか。
 そのことを、考えていきたいと思います。

 もし科学の成果で決定しない団体があれば、それはどうなります?
 みんなで決めれば「地球の周りを太陽が回る」と決めてもいいんでしょうか。
 民主主義とは何でしょうか?
 なんでも決めて良いのか、考えたいです。

 マンガ『日本沈没』の最終巻、第15巻で、非常にユニークな、登場人物(俳優?)による打ち上げ会のような場面で、ひとりがいいます。

 「こんな話はさ、作家のエゴのような創造性で、個人的エネルギーで
 〝なんとしてもひどい沈め方貫いてやる〟ってごり押ししてなんぼよ
 なのにさあ、個人的エゴと対極にあるような
 おおぜいの意見集めて割って
 ぶなんなことしようとしたあげく 沈まな!! もがもがっ!」

 そのあと中田さんなどを演じた俳優さん(?)が言います。
 「もう役を演じなくていい、沈んでいない日本に戻ってきておしあわせか?
  君こそ、ほんとうに戻って来ているかい?」

 俺たちは待っているぞ・・

 そうだ、ぼくも物語に戻らないと。
 N子さんと、戻らないと…。
 戻って、日本が沈没して再生する物語を、いっしょに生きていこうね。
 あと何年かな、わからないけど。

 会議は何によって決定するのか、その正当性がわからないままでした。
 それがわかったら、どんな団体・組織も「俺たちは待っているぞ」なんて言わずに
 発展していくんでしょうね。

 

 

本と映像の森75 一色登希彦さん『日本沈没 4』小学館

2010年09月01日 05時44分09秒 | 本と映像の森
本と映像の森75 一色登希彦さんマンガ、小枩左京さん原作『日本沈没 4 ~古都消失~』小学館、2006年12月1日初版第1刷、定価505円+消費税

 一色登希彦さんのマンガ『日本沈没』(15巻で第1部完結)にボクが初めて注目したのは、コンビニで立ち読みした週刊マンガ雑誌『モーニング』で、たぶん後半の、小野寺さんがマコさんと死刑囚さんたちを救出するシーンからだと思います。

 それで、なんかゾクゾクするものがあったので、第1巻から買い始めました。正解でしたね。

 この第4巻は、相模湾大津波の第3巻に続く、京都大地震です。
 なぜこの巻が重要かというと、政府「D計画」メンバーが正式に集まり発足することと、このマンガの実際の主人公たち、若い4人男女のうち、男性の2人、深海艇パイロットの小野寺俊夫さんと、幼なじみでこの後、重要な役割を果たす郷六郎さんが登場して再開するからです。
 というより、2人の再会と「再生」がなければ、物語が成り立っていません。
 だから、映画版や元の小説版は、物語が成り立っていたのかどうか、わかりません。

 小野寺さんは、京都大地震が起こること、中学生の頃の親友・郷六郎さんが、ひきこもりになって今も京都に住んでいることを聞かされ、大地震直前の京都を訪ねて郷六郎さんに会います。

 郷六郎さんは、転校してきた小野寺さんに、サッカーで「おい!転校生!お前!押さえんな!ちゃんと本気全部出さんかい!」と叫びます。
 そのことから、親友になった2人は、六郎の部屋で語り合います。
 六郎「何かが頭を押さえつけるンや。走ろうとするやつの本気を削り取ってしまうんや」

 これが「日本沈没」全体で解決すべきテーマの提示だと思います。
 
 そしてすぐ神戸に転校した俊夫さんは、父親にこう感じます。

 父親はこんな感じです。
 受け入れろよ、俺を否定したりするなよ。俺の弱さを見抜くなよ。
 俺のやり方が正しかったと証明してもらいたいんだ。
 俺の弱さを指摘したりしてみろ。俺はだめになっちゃうぞ。

 これって、まさしく「ハラスメント」ですよね。 
 つまり受け入れの強制と、否定の禁止の強制、二重の強制で成り立っています。
 (詳しくは『ハラスメントは連鎖する』光文社新書、を参照してください。詳しく解説されています) 

 「この人達…体が大人に見えるだけなんだ…
  考えの合わない人間が目の前にいることに、心が耐えられないだけなんだ」
 「気の毒だから、もうやめよう。黙ろう」
 と理解したところで、阪神大震災に遭遇し、父親が死んでしまいます。

 そういうショックを経験して(社会的には優秀な機械パイロットだけど、頭の中は自分にひきこもっている「精神的ひきこもり」の)小野寺さんと、頭の中は世界に開かれてパソコン金融でもうけているけど、社会的には家にひきこもりの郷六郎さんが、再開することから、この「日本沈没」、いや「日本再生」の物語は始まるのだと思います。

 いまこう書いて、あ、そういうことなんだ、と自分で納得しました。うわ、すごい自画自賛。だれか否定してください。

 さっき、やっとメール設定をしましたので、誰でも雨宮にメールできるようにしました。

 補足ですが、京都に「第1交響曲」を聞きに行ったのは、この第4巻の京都地震で崩壊する設定の京都タワーに2人で登ってみようという自己企画でした。
 もちろん、N子さんには黙って。
 へたにしゃべったら、怖がりますからね。
 現に、京都タワーに登ったら、高所恐怖症だったのか、どうか、展望窓の近くには近寄らず、いちばん内側を歩いてるんですよね。
 ぼくも、なんだか、マンガのシーンを思い出して、怖くなって、すぐに下りました。


雨宮日記 8月31日(火) コオロギさんがお風呂場で鳴く秋

2010年09月01日 05時23分56秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月31日(火) コオロギさんがお風呂場で鳴く秋

 「夏休みも、8月も終わり、もうじき秋」そう言いたいところですが、秋の気配はあんまりなく、少し夜が涼しくなって、秋の虫、コオロギさんたちが鳴き出しただけです。
 コオロギさんたちの声の聞き取りは、まだあまり知らなくて、ツズレサセコオロギさんくらいです。

 昨夜、自宅のお風呂に(1人で)入ったら、小さなコオロギさん(メスでしょうか?)がぴょんぴょん跳んでいて、かわいそうなので、台所にいたN子さんを「N子さあん」と呼んで、小さなコオロギさんを家の外へ出してもらいました。

 なお秋の虫も、夏のセミも、みんな鳴いているのは(あるいは泣いているのは)オスたち・男たちですので。
 
 そういえば、昔、家に電話がかかってきて
 電話「お父さんはいる?」娘「お父さんは、お風呂だよ」
 電話「お母さんは?」  娘「お母さんも、お風呂だよ」
 もう昔の神話時代の伝説になりました。