雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月19日(金) やっと頭がスッキリしてきました

2013年04月20日 06時22分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月19日(金) やっと頭がスッキリしてきました

 いま気がついたのは、ぼくが毎年の、いつもの「春の精神的低調」だったようです。つまり、毎年、4月のこの時期に「うつ」っぽくなって、頭の回転がすごく悪くなるのです。

 それが回復したので、やっと浜岡裁判静岡県の会のニュース「希望 第2号」の編集に入りました。来週までには、完成して、印刷・発送しないといけないので。

 それと、来週の土曜日、27日は、父の90才お祝いで、その日のための「雨宮家年表」を完成しないといけません。

 つまり、二重に忙しいのですが、どういうわけか、頭がスッキリ、透明になってきました。なんとか、なりそうです。

  

 


雨宮日記 4月18日(木) 則子さんと平和行進の準備で…

2013年04月20日 06時06分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月18日(木) 則子さんと平和行進の準備で…感じる市役所の「変容」

 あんまり頭がスッキリしないのですが、則子さんと、5月末の平和行進の準備で、可美サービスセンターと舞阪文化センターを訪問しました。

 ぼくが運転して、車で家を出ました。昨年の道で、変化がないかどうか、市役所から平和行進が歩く道を車でたどりました。

 可美サービスセンターへ着いて、車を駐車場に止めて、建物の中に入って、いつもの「2階」へ行こうとしたら、「あの!」と後ろから呼び止められました。

 「すみません。保健福祉センターへ用事ですけど」と則子さんが言ったら、「保健福祉センターは、こちらです」と若い女性職員が言うので「えっ?」と思って、話をしました。

 市役所の機構改革で、保健福祉センターは「わたし1人になって」、1階へ降りたのだそうです。

 則子さんが平和行進の今年のチラシを出したら、「ああ!平和行進ですね」と言ってくれたので、昨年もいた方のようです。

 人員も設備も限られているなかで、協力してくださるよう、話をしました。

  ☆

 可美から舞阪まで、平和行進の歩く道路を車で走りました。

 いつもの平和行進の5月30日の昼食の会場、舞阪文化センターへ行ったら、昨年もいてくれた顔なじみの若い女性職員でした。

 ちょっと安心して借りる手続きをしていたら、彼女が「今年度いっぱいで、ここは耐震の問題もあって、閉じるんですよ」と言うので、びっくりしました。

 「となりのセンターを借りることにはなっているんですが、どの程度、どういう感じになるかはわからないです」ということでした。

 彼女のいうのでは、昔の舞阪町の感覚と、いまの広域の浜松市の感覚が違っていて…という嘆きのようでした。それは、正当な抗議だと思いました。

 

 


雨宮家の歴史 4 父の著『落葉松』 4 第1部の1 父の誕生

2013年04月19日 06時24分20秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 4 父の著『落葉松』 4 第1部の1 父の誕生

     第一部    我が家のルーツ

  自分探しの旅に出る前に、我が家のルーツ探しの旅に出ることにする。
 我が家のルーツと言っても、昔から何代も続いてるような旧家でもなく、私で三代目の平凡な家系である。人は皆、自分のルーツを知りたい。ご先祖様はけなげで、立派だったと思いたいのは人情である。しかし、そういう話だけを集めたのでは、うぬぼれになってしまう。

 後述するが、父は半世紀近くをアララギ派の歌人として過ごしたが、その歌はわかり易く、そのままわが家の歴史でもあった。


 この自分史の第一部、第二部ではその父の歌を核として、話を進めていきたい。
 なお歌のあとの(  )内は作歌年を示す。

 Ⅰ 1  父の誕生

(一) 越前国福井区佐佳枝上町九番地出生 と書かれしわれの臍の緒 
           (  昭和四十四年  )

 父は、明治二十一年八月九日、福井で生まれた。その福の一字を取って「福男」と名ずけられたが「ふくお」でなく「とみお」と呼ばれた。歌会などで、ふくおさんと呼ばれると、「とみおなんだ」と気色ばんだというが、父も名前の由来は知らなかったようである。

 漢和辞典によると、福という字は、さいわい、しあわせ。人名として、もと、「とみ」とあり、更に福人ー福のある人、富にめぐまれた人という意味があるから、福は富にも通じているようである。しかし、父は富などには縁なく、一生を清貧に生きた人であった。

 父の生まれた福井の佐佳枝上町九番地を探すべく、先年福井市郷土歴史博物館より、地図のコピーを取り寄せて調べた。

 地図は、明治二十四年・昭和八年・現在と三枚あったが、父の生地は現在中央二丁目となって、県庁・銀行・新聞社などが集まっている。福井市の中枢部に近い所であった。

  作家の津村節子氏が、某新聞に「地域の祭り」と題して(平成十年九月十三日付)福井の佐佳枝廼社(さかえのやしろ)のことを書いていた。津村氏によると、佐佳枝は上、中、下と三町あり、氏は中町の生まれで、社も中町にあるそうである。父の出生地とは隣り合わせであり、氏の生家は織屋であった。

 福井は古くから、絹、人絹の生産地として有名であり雑誌『世界』に「絹扇」と題して、その歴史を連載中である。福井も随分変ったと言っている。

  父が福井で生まれたのは、祖父が陸軍の経理官として、福井に在勤中だったからである。
 明治二十年五月、陸軍省会計局付の陸軍三等書記(経理伍長)として任官した祖父は、名古屋鎮台(翌二十一年、第三師団となる)の歩兵第六連隊付、更に福井大隊区司令部付となって、福井に赴任した。大隊区司令部は、後の連隊区司令部に当たる。司令部は越前国一円を福井大隊区として、徴兵・召集の事務にあたっていた。

  明治維新の際、全国の城及び城跡は陸軍省の管轄となり、主に歩兵連隊などが置かれたが(静岡の三十四連隊、名古屋の六連隊など)福井では否決されて、城跡は旧藩主松平候に払い下げられた。そのため福井県では、敦賀や鯖江に連隊が置かれた。大隊区司令部は、福井城跡内に置かれたものと思われるが不明である。現在、城跡は県庁・県警本部などになっている。
                                
  祖父は、浜松の北方、現在の天竜市船明(ふなぎら)の河島家に、安政四年八月十二日に生まれた。

  河島家は、代々土地の八幡宮の宮司を務める神官であった。四百年ほど続く現在は十九代目であるが、祖父はその十五代目の次男であった。次男だったのに長太郎と命名された。何か仔細があったのか知らないが、後年(明治二十七年)三十七歳の時、卓二と改名した。本編ではまぎらわしいので、卓二で通すことにする。

  国道百五十二号線は天竜川の東岸に沿って北上するが、船明ダムのある東側の山際に八幡宮がある。そこが河島家である。

 幕末の動乱期に、遠州地方の神官たちで、時流に乗り遅れまいと「遠州報国隊」が結成され、従軍した者もあったが、もともと武士ではないから、主に警備や給与担当などの後方勤務にあたった。

 河島家でも卓二の祖父の十三代目が参加し、東征軍の食料調達などの為に散財して、殆ど河島家のものだったと言われていた船明の土地も手放してしまった。卓二はちようどその貧窮の時代に生を受けた。母は産後の肥立ちが悪くて、卓二の生後四十余日にして亡くなってしまった。その為祖母に養育されたが、その祖母も他界すると、次男だった卓二の居場所が無くなってしまった。

 明治十四年二十五歳の時、船明とは天竜川を挟んで反対側の、引佐(いなさ)郡麁玉(あらたま)村大平(おいだいら)の中谷民次郎家へ養子としてはいった。
             
(二) 戦いの跡はいずこぞここにして  さやかに聞こゆ谷川の音
       大平城跡にて(  大正十三年  )

 大平城は南北朝動乱の時、南朝方の宗良親王が拠点として戦った所で、現在は浜北市の史跡として保存されている。宮口から入って行くが、今でも陸の孤島という感じがする。 『遠江国風土記伝(寛政四年刊)』により、船明と大平の社会的比較を考察して見よう。


  「船明は五百二十九石八斗四合。天竜川の運送船揚げの場所なり。信濃国伊奈郡の檜をこの大川に流し、ここに於いて取揚致。百姓、農の閑に筏を運送する。(船明の筏師は遠国まで聞こえ、越後あたりまで出かけたという。大平は七十三石八斗一升(船明とは格段の差があった)水田無し・茶・漆・炭・黒木などを産物となす。」

 船明が天竜川の水運で栄えたのに引き替え、大平は山奥の純農村であった。
 現在は太平には水田もあり、果樹園が多く、柿は特産物として全国に知られている。しかし、住民は明治二十四年、八九戸四二四人に対し、昭和五十三年、一〇五戸五二九人と僅か増えているに過ぎない。

 先年、太平小学校の新入生は一名であった。若い人がいないということであろうか。

 


地震・津波・防災 4月17日(水) 3つの地震は関連がある?ない?

2013年04月18日 06時32分58秒 | 地震・津浪・防災

地震・津波・防災 4月17日(水) 3つの地震は関連がある?ない?

第1の地震 

 4月13日午前5時33分頃、兵庫県の淡路島付近で、推定マグニチュードは6.0。兵庫県淡路市で震度6弱。かなり建物が壊れました。

 阪神淡路大地震の影響という見方と、迫っている南海トラフ巨大地震の前兆、という二つの見方がありそうです。

 数日後に「未発見の活断層」によるという新聞記事が出ました。

第2の地震

 4月17日、午後5時57分に三宅島近海でM6.2、震源は深さ20kmの地震。三宅島で震度5強、神津島で震度4です。

第3の地震

 4月17日、宮城県沖でM5.8、震源の深さは60km、宮城県で震度5弱の地震。

 こんなに日時が近接して、M6前後の地震が日本列島の3カ所で起きると、偶然とは言えない気がします。

 たとえば「南海トラフ地震」の前触れとか、「富士山噴火」の前触れとか…。

 今のところ、何も科学的な仮説はなしで、たんなる雨宮の「勘」です。

 


雨宮日記 4月17日(水) サナギがアゲハチョウになりましたが…

2013年04月18日 06時04分22秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月17日(水) サナギがアゲハチョウになりましたが…

 目が覚めたら午後2時過ぎで、慌てて起きて、則子さんと電車ででかけました。浜岡原発裁判の県西部の会、第2回事務局会議です。

 終わった帰り、曳馬駅で電車を降りて馬込川に来たら、オオバンが5羽、いました。「まだ、いるんだね。」「居着いてくれるといいね」と話をしました。

 家の玄関の鍵を開けて先に入ったら、後ろで則子さんが「あっ!チョウチョ」と言うので、エッと振り向いたら、「ほら、ここ」と玄関の横の板に落ちていたアゲハチョウを指さしていました。

 羽化がうまくいかなかったのでしょうか。見かけは、ちゃんとしたアゲハチョウですが、動けないようです。則子さんに「砂糖水つくって」と言って、なんとか元気に飛び立ってくれるように、お世話をしました…。


雨宮家の歴史 3 父の著『落葉松』の3 はじめに(記憶)

2013年04月18日 05時59分47秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 3 父の著『落葉松』の3 はじめに(記憶)

  ☆雨宮智彦の父の著書から転載しています

   「はじめに ( 記 憶 )

   自分探しの旅は、幼い時の記憶から始まる。

 「過去の記憶というやつは、あるところまで行くと急にスウッと消えてしまう。二十五歳までは明らかに登り道である。そこから前へさかのぼればのぼるほど、下り傾斜が井戸型になって、その先はもういくら覗きこんで見ても真っ暗である。」(本多秋五著『古い記憶の井戸』講談社文芸文庫)

  その真っ暗な中に、八十歳の私の頭に残っている、最も古いと思われる記憶なるものは、次のようなものである。

  「ある狭い急な坂道を、私は父にせかされて、足早に走るように下りていった。そして、その行く先に見たものは、真っ暗なかたまりであった」

  幼い時の私の頭に残ったたったこれだけの光景は、それがどこであったのか、またいつ頃のことだったのか、ということは、永い間はっきりとせず、闇に包まれたままであった。

  大岡昇平の『俘虜記』に次のような一節がある。
 「その強い光の束の中を、背中に光を負った一人の俘虜が、光に追われるようにうなだれて、のろのろと右から左へ歩いて消えた。私はこの光景をこの収容所にいた間のいつ見たか、夜のどういう時間に見たかは覚えていない(中略)私の記憶に止まったについては何かその理由があったに相違ない。おそらく私は何か感動していたのであろう。」 

  大岡昇平の記憶は、この文章の発表時期(昭和二十四年三月)より考えても、三、四年前のことである。私の「坂道とまっ黒なかたまり」の記憶は、後察するように七十年も前のことであるから、それ以上に何か理由があったのであろう。

 私は父に、私の能力以上の歩く速さを要求されて、拒否反能を起こしたに違いない。それも大岡昇平のいう感動の一種かも知れない。強烈な印象を私の脳のしわに刻みつけられて、消え去ることなく残ったのであろう。

  ある日、私は『はままつ百話(明治・大正・昭和の近代百年の浜松の歴史的事件を挿話として纏めたもの)静岡新聞社』を見ていたところ、その中に「今は昔、歩道に正座し、陛下をお迎え」の記事があり、「歩道にござを敷き、紋付羽織姿で陛下をお迎えした市民」として写真が載っていた。

 あっ、これだ!。私の記憶していた「まっ黒なかたまり」なるものは、この奉迎市民の着ていた紋付羽織の黒の色だったに違いない。

 と、すると、私は父に連れられて陛下の行幸のお迎えに行く途中であったのだ。少し時間におくれて、父は私をせかせたのであった。

 ではその坂道はどこだったのだろうか。

 静岡県が編纂した『静岡県御巡幸記』によると、天皇の静岡県巡幸は昭和五年五月二十八日から始まり、浜松へは三十日午後、列車で到着された。それより車で、田町・池町・尾張町・山下町・追分(おいわけ)を経て和地山通りを三方原へ出て行在所(あんざいしよ)(飛行第七連隊)へ到着した。三方原は昔、家康と信玄との合戦場であり、現在は航空自衛隊になっている。

 追分は三方原台地が急な斜面となって、下町の編辺に位置する。追分から六間道路と呼ばれる幅約十メートルの道が西から東へ延びていた。この六間道路に出るには、名残(なごり)(今の鹿谷町・国道二百五十七号線)の通りから、真向坂(まつこうざか)を降りるのが一番近かった。この坂の名の由来は、坂の下から上を見上げると、真向いに坂が立ちはだかっているからだと、言われていた。急な坂道であった。

 当時、私たち一家は西の広沢町に住んでいたから、真向坂を降りた確率は高い。奉迎者の写真は田町であるが、父は追分で奉迎したのであろう。私に奉迎の記憶はないが、奉迎者の黒のかたまりだけは記憶に残っている。

  天皇の行幸のあった昭和五年、私は小学二年生の七歳で、まだ何も世の中の事はわからない年令であった。前年の年末に起こったアメリカの株式市場の大暴落から、世界中に大恐慌が押し寄せて、日本も不景気の時代となり、世相も不安定となっていた。犠牲になるのは、農民・労働者など下積みの人たちであった。

  行幸について、宮内大臣より県知事に、正式に伝達されたのは四月十四日であったが、表舞台の一般送迎・奉祝行事などの打合せと平行して、裏舞台の思想方面の取締りも行われた。

 『御警護申上げる警官約二千三百名であるが、御通筋の警戒は勿論制服警官を以て任ずるが、その他は六百名の私服を動員して、思想方面を厳重に警戒し、来る二十日頃から私服隊は一斉活動を開始し、警視庁・神奈川県・愛知県各警察部よりは、特に敏腕なる特高刑事の応援を求めて、東海道線等による不良分子の本県潜入を防止する筈である』(東京日日新聞  静岡版  昭和五年五月七日)

  この記事を裏付けるように、行幸一週間前の五月二十一日午前五時、県下一斉に取締りがあり、百余名を検挙した。この時、挙げられた某氏は『屋根裏青春記』と題して次のように書いている。

  『昭和五年五月には、天皇行幸を契機として「五・二一事件」と呼ばれる静岡県下一斉の「赤狩り」が行われた。私もこの時、見付警察署(現・磐田警察署)のブタ箱に四十七日間もぶちこまれて、特高の取調べを受けた。二十四歳の時だった。」
 この時検挙された者のうち、十名が治安維持法違反で起訴された。

  このような事は、昭和三年秋の京都での天皇の即位式ーいわゆる御大典の儀式の時にもあった。雑誌「改造」を持つていたという理由だけで、上京中の青年は特高刑事の検束を受けて、東海道線の列車より降ろされて、ブタ箱にぶちこまれた。

  内務省は一千万円(現在の価格で百憶円以上)の予算で、三万名の警官を動員し、そのうち六千名を京都に集め、旅館・料理店・下宿屋などから、精神病者や思想的注意人物たちを検束して、七千人を検挙した。

 これらのことは、行政法第一条(いわゆる予防検束)によって、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで続いた。

  物質の原子に、プラス電気の原子核と、マイナス電気の電子があるように、私たちの生きた昭和の前半は、華やかな表舞台とは裏腹に、陰惨な裏舞台があったということを戦後になって知った。私はこのことを念頭に置きながら「自分史」の筆を書き進めていくつもりである。」

 

 


 


雨宮日記 4月15日(月) 仕事が連休のあいだにサナギが…

2013年04月16日 05時35分30秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月15日(月) 仕事が連休のあいだにサナギが…

 通常は、深夜の仕事は土曜の夜中休みですが、今週は日曜日の夜中も休みの連休だったので、仕事に行く前と帰った時に見ている、「サナギ2つ」の観察が欠けてしまいました。

 ところが、15日の午後に、フッと気になって玄関のサナギを見ると、一つがカラになっていました。一つはキアゲハで一つはアゲハチョウですが、どっちがどっちか、わかりません。

 慌てて、家の中を1階から2階までくまなく探しましたが、蝶々は行方不明です。もしかしたら、蝶々ではなくて、孵ったのは寄生蜂かもしれませんが。

 残ったサナギが孵るのを見落とさないようにします。

  ☆

 今日は、テレビで夜9時から新「ガリレオ」シリーズを見ました。2007年のテレビでの柴崎こうさん(女性刑事役)から新たに交代したのも、一つの見所です。

 内海刑事より、「帝都大学法学部」出だけあって、かなり弁が立つというか、理屈っぽいので、湯川さんもそれに影響されたか、理屈をこねるようになって面白いです。

 湯川准教授の決めぜりふ「信じるのが宗教なら、疑うのが科学です」

 うわ、それ、ボクがこの数年間、言ってきたことですよ!

 夕方、旧シリーズの再放映を録画で見ていたボクを「夕食よ」と呼びに来たので「今、ガリレオを見ているから後でいい」と言ったら、則子さん、いわく。

 「湯川さんみたいにならないでよ」

 あのね、もう、昔からなってるって。もう遅いよ。


雨宮日記 4月13日(土) 「核燃料」学習会と「資本論」連続学習会

2013年04月14日 21時27分45秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月13日(土) 「核燃料」学習会と「資本論」連続学習会

 今日は、午後、「使用済み核燃料の処理と廃炉の課題」学習会です。則子さんが「どうする?車(ぼくの運転という意味)で行く?電車で行く?タクシーで行く?」と言うので、「……」と答えておいたら、午前11時頃、目が覚めたボクに

 「タクシー予約しといたから」「ありがと」「12時半だから」「うん」

 というわけでタクシーで会場の福祉交流センター(むかしの「福祉文化会館」)に向かいました。名前を替えるのが好きな浜松市政で、むかしの浜松市民会館は「はまホール」に、「公民館」は今年4月1日から「協働センター」になりました。

 家の近くの「曳馬公民館」も「曳馬協働センター」に看板を変えました。

  ☆

 学習会は、元高校物理教師のNさんが、綿密な資料(22ページ)にもとづいて、綿密な講義をしてもらい、よくわかりました。

 内容は「浜岡原発永久停止裁判 原告団・弁護団・支援組織共同ブログ」で紹介したいと思いますが、ひとつだけ、紹介します。

 スリーマイル原発事故のあと数年して、原子炉の水没させた炉心をカメラで撮影したら「緑色」に映っていて、それが猛烈な放射能でも繁殖していた「ミドリムシ」だったというNさんの話でした。そうしたら、質疑で「ミドリムシを粉末にして売ってますね」という話があり、一同、びっくり。

 炉心でも生き抜いた「ミドリムシ」を食べれば、放射能に強い体質になる、と期待してるのかも知れませんね。うわ!

 自分の持っている電子辞書で検索したら、ミドリムシは、動物(「ムシ」)のくせに葉緑素をもって光合成する、植物と動物のあいのこのような生命体なのだそうです。

 


本と映像の森 249 瀬名秀明さん『インフルエンザ21世紀』文春新書

2013年04月14日 20時59分34秒 | 本と映像の森

本と映像の森 249 瀬名秀明さん『インフルエンザ21世紀』文春新書、2009年12月20日第1刷発行(雨宮はこのだい1刷を購入)

 中国で鳥インフルエンザ(H7N9型)の人への感染が拡がっています。今日14日現在で、これまでの上海市周辺から北京・河南省へも広がり、感染者は55人で、死者は11人です。

 それで、これまで読んだ本数冊から、これが最良だった本を紹介します。

 著者の瀬名秀明さんは「パラサイト・ィブ」で有名な作家、瀬名さんが30人以上の医師・科学者・ジャーナリストにインタビューし、2009年のブタインフルエンザ「パンデミック」に始まり、ウイルスと人のかかわり、パンデミックにどう対処するのかをリアルに追求した本です。

 瀬名さんは、大学で薬学研究科博士号をとっていて、この本の作者としては最適の方です。

 ノウハウものではありません、もっと深い、一人ひとりに考えることを求める本です。

 そして専門家のプラスマイナスも教えてくれます。つまり「専門家」といえども、その問題について熟知しているわけではないということ。

 いくつか、重要な概念をあげておくと、

 ① ウイルスの構造。糖や脂質。これが遺伝変異をおこすことで、突然、人への感染が始まります。

 ② ウイルスの種類、高病原性鳥インフルエンザウイルスは「H5N1」です。香港カゼは「H3N2」です。

 ③ WHOの「フェーズ」概念。いまのところ、中国の国境を越えて、地域を越えて世界に拡がっていないところからも、「人から人への感染」は起きていないとされています。

 そして、だいじなのは、たんなる「医学的」「生物学的」対応ではなく、「社会的」「政治的」対応をどうするのか、人間と人間のマンツーマンでの対応をどうするのかが、求められているというのが、瀬名さんのいちばんの主張だと思います。

 だから、専門家だけに頼るのではなく、専門家と共に、専門家と手をつないだネットワークを構築することが、インフルエンザウイルス問題だけに限らず、原発問題でも、いろんな問題でも全て求められているのだと思います。

 いまのテレビやネットの「ニュース」では、そういう解明が欠落しているので、自覚した個人が自分で探さないといけない、そういう社会的段階です。

 「ウイルス」の問題を追っていくと、「生命とは何か」「生命の進化の謎」までいくのですが、「本と映像の森」で追っかけていきます。

 


雨宮家の歴史 2 『落葉松』の2 序文

2013年04月13日 05時58分48秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 2 『落葉松』の2 序文

  落葉松

    私が自分史の標題を「落葉松」とした理由は、ちょうど私が生まれた大正十二年に、生家の浜松市東伊場町十八番地を発行所として、父が短歌の同人詩「落葉松」を発行した。それを記念として命名したのである。(「Ⅰ 8 アララギ」参照)
 

  落葉松(唐松)は、別名富士松ともいい、富士山・八ヶ岳・上高地・日本アルプスなど上信越の本州中部、主に信州の山岳地帯を代表する針葉樹である。

   大きいものは高さ三十米ぐらいになり、針葉樹としては、珍しく晩秋黄葉して落葉する。早春、芽吹きと同時に花をつけ、秋に松ボックリができる。

  カラマツは植え付けて二、三十年で利用できるので、戦後、国土再建の復興材として脚光をあび、植林は一九四十年後半から、六十年前半に及んだ。このため信州の山々は、カラマツの一大樹林地帯となった。

  先日、出直し選挙で当選した、田中康夫長野県知事が記者会見した北アルプス南端・朝日村の「あさひプライムススキー場」ゲレンデ周辺も緑深いカラマツ林であった。

  長男の所有する山荘のある、長野県白馬村のみそら野高原から、北アルプスを望むと、北から白馬岳・杓子岳・鑓が岳と白馬三山が見える。標高千五百米の蓮華温泉から、白馬山頂に向かう途中の樹林帯を抜け出た、天狗の庭(二千米)の岩場には、しっかりと根を張った天然のカラマツが金色に輝いている。三山につづいて唐松岳が見渡せる。その名の通り、ここにはカラマツが群生しているに違いない。

  白馬の山々の落葉松に恥じないよう、私の自分史「落葉松」を完成させたい。  

  本書(戦前編)は、NHK浜松文化センター(アクトタワー浜松八階)において、平成十三年四月より十五年三月までの二年間、月二回の「自分史を書こう」講座の作品に加筆・訂正したものです。途中、病気入院のため八回ほどの欠席がありましたが、どうやら傘寿の八十歳記念として纏める事のできましたのは、ひとえに講師の藤田安彦先生のご指導と、受講生諸氏の声援のおかげと深く感謝しています。
         (平成十五年三月記)

 


雨宮家の歴史 1 『落葉松』の1 目次

2013年04月13日 05時53分11秒 | 雨宮家の歴史

 雨宮家の歴史 1 『落葉松』の1 目次

☆完成した父の著書『落葉松』を掲載していきます。「本」を読みたい方は雨宮までご連絡く     ださい。

 落葉松 第一巻 ー自伝と文芸評論ー
  
      目次

    Ⅰ 自伝 戦前編

  落葉松
  はじめに(記憶)

   第一部 わが家のルーツ   

  Ⅰ 1  父の誕生
  Ⅰ 2  祖父の上京
  Ⅰ 3  中谷家の誕生
  Ⅰ 4  陸軍被服廠
  Ⅰ 5  日清戦争
  Ⅰ 6  東京開成中学校
  Ⅰ 7  谷島屋書店
  Ⅰ 8  アララギ

   第二部 生い立ちの記
                              
  Ⅰ 9  母のこと
  Ⅰ 10 下垂
  Ⅰ 11 孝男叔父
  Ⅰ 12 祖母の影
  Ⅰ 13 広沢.町
  Ⅰ 14 西来院
  Ⅰ 15 谷島屋別荘
  Ⅰ 16 浜松工業学校
    Ⅰ 17 林泉書房
  Ⅰ 18 鮮満修学旅行
  Ⅰ 19 徴兵検査
 
   第三部 在鮮記

  Ⅰ 20 軍需工場
  Ⅰ 21 召集
  Ⅰ 22 入隊
  Ⅰ 23 南鮮へ
  Ⅰ 24 敗戦
  Ⅰ 25 特別警察隊
  Ⅰ 26 釜山埠頭勤務隊
  Ⅰ 27 安養勤務隊
  Ⅰ 28 復員引き揚げ
  Ⅰ 29 回帰点
   Ⅰ 戦前編 あとがき

  Ⅱ 自伝 戦後編1
   
   第四部 山口県光市

  Ⅱ 30 朝日塩業
  Ⅱ 31 山口県光市
  Ⅱ 32 塩の歴史
  Ⅱ 33 枝条架
  Ⅱ 34 結婚
  Ⅱ 35 中村住宅二二六号
  Ⅱ 36 長男と次男の出生
  Ⅱ 37 台風

      第五部 肉親を送る

  Ⅱ 38 母を送る
  Ⅱ 39 長兄の戦時死亡宣告
  Ⅱ 40 長姉の空襲死
   
     第六部 戦後の始動

  Ⅱ 41 バラック住宅
  Ⅱ 42 林泉書房の再開
  Ⅱ 43 閉店
   
     第七部 老人性痴呆

  Ⅱ 44 十軒町
  Ⅱ 45 うつ病
  Ⅱ 46 一番はじめは
  Ⅱ 47 入院
  Ⅱ 48 巣鴨刑務所
   
     第八部 前立腺ガン

  Ⅱ 49 ガンの発覚
  Ⅱ 50 膀胱の手術
  Ⅱ 51 ストレス
  Ⅱ 52 ガン雑感
  Ⅱ 戦後編 あとがきー月の沙漠

Ⅲ 後編 文芸評論

 Ⅲ 1 「引馬野の歴史的、地理的考察」
      序
            一、大宝二年(七〇二年)
            二、参河行在所
            三、引馬野と榛
            四、持統太上天皇
            結び

 Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』
 Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか
           1 はじめに
           2 戦後文学
           3 野間宏
           4 武田泰淳と堀田善衛
           5 大岡昇平
           6 島尾敏雄
           7 梅崎春生

 Ⅲ 4 雪腸と子規
      ー浜松詩歌事始 上編
 Ⅲ 5 左千夫・茂吉と城西 
      ー浜松詩歌事始 中編
 Ⅲ 6 大正歌人群 
      ー浜松詩歌事始 後編

編者あとがき

 


雨宮日記 4月12日(金) 「goo」全ブログにパスワード変更要請

2013年04月13日 05時42分47秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月12日(金) 「goo」全ブログにパスワード変更要請

 「不正アクセス」があったそうで、以下、引用します。

  「現在、gooIDに対する機械的な不正アクセス行為を確認しております。そのため、不正アクセスの可能性があるgooIDアカウントにつきましては、お客様情報保護の観点から、やむをえずログインロックをさせていただいております。」

 このため、このブログも含め、ぼくが管理しているいくつかのgooブログのパスワードを強固に変更しました。

 ただ、過去の、今は使っていないのは、どうしようかな?このまま、うち捨てておくか?

 

 


本と映像の森 248 テレビドラマ『ガリレオ』録画で見てます

2013年04月12日 05時48分48秒 | 本と映像の森

本と映像の森 248 テレビドラマ『ガリレオ』録画で見てます

 次女が録画している「ガリレオ(旧)」シリーズを見て、はまっています。

 4月15日(月)にテレビ「ガリレオ」新シリーズが始まるのと、6月に映画が公開なので、旧作を一気に放映しています。

 「帝都大学物理学教室」の准教授・湯川学と、新人女性刑事・内海薫の2人が、オカルトっぽい難事件を湯川の「科学分析」で解決していくシリーズです。

 「変人ガリレオ」と呼ばれる「湯川学」は、もちろん、日本初のノーベル賞物理学者・湯川秀樹さんへのオマージュでしょうね。

 たとえば「人体発火」事件、たとえば「火の玉」事件、たとえば「予知夢」事件、たとえば「ポルターガイスト」事件…

 「ガリレオ」シリーズは、犯人も犯行も謎の場合と、「倒述」推理小説で犯人は初めからわかっていてその「犯行」の謎を解く場合と、2種類あります。

 湯川学のセリフ

 「実に興味深い」「結果には必ず原因がある。そしてその二つを結びつける合理的な理由がある」

 「科学者なら研究テーマにまじめに取り組むべきと言っているんだ」(そして、湯川さんは、真犯人に対して、彼の犯行過程の不十分さを示して「反省」を促す!)

 「憶測で物をいうのはよくない。どんな小さなことも見逃さず、一つひとつの事実を検証してからでなければ人を疑う発言はつつしむべきだ。一時的な感情にナガされずにね」

 これで「推薦」したことになってるか、わかりませんが「科学の目」を持ちたいと思っている「科学志向」の人は、みんな、このドラマ(テレビ・映画)「ガリレオ」を見るべきだと確信します。え?ぼくが「確信」しても…って?

  ☆

 湯川さんが「解決をひらめく」と、突然、どこでも、数式を書き出すのは、あまり科学とも謎解きとも関係がなくて、「今から謎解きをします」という「おきまり」設定の、聴取者サービスです。こういうのは、科学への誤解を呼ぶので、やめてほしいです。

 それよりも、科学は「アイデアと実証の討論」なのですから、湯川研究室の中年「万年助手」や学生たち、そして刑事たちの、平等の討論会をやって、謎解きをしたほうが「ドラマ」になると思うのですが。ぼくが作者だったら、そうしますね。

 ☆

 湯川准教授と、内海刑事との「関係」も興味津々ですが、新しいテレビシリーズでは、新しい女性刑事に交代するようなので、ハッピーエンドではないのですね。残念。口論止まない、学者と刑事の、なんともアンバランスでフレッシュな夫婦が誕生したかも知れないのに。

 


雨宮日記 4月7日(日) 呆れる「汚染水貯蔵施設」はゴミ処分場の流用

2013年04月08日 05時54分08秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月7日(日) 呆れる「汚染水貯蔵施設」はゴミ処分場の流用

 東電福島第一原発の「汚染水貯蔵施設」から「地下に漏れた」という報道で、実はこの「貯蔵施設」なるものは、ゴミ処分場で使われる三重シートを地中に敷いているだけ、とわかりました。

 あきれ果てました。ボクや則子さんは、この10年間、旧浜北市のゴミ最終処分場「灰木処分場」建設反対運動にかかわってきて、そこでさんざん、やりあった、あの三重シート、そのものです。

 ゴミ処分場の場合には、雨が土と焼却灰を浸透する汚水を処理して、きれいにする設備が当然、あるのですが、この原発の「汚水貯蔵施設」には、ないでしょうね?もし、あったら、ごめんなさい。

 そういう汚水処理施設があってもなくても、このゴムシートははがれるし、破れるし、ぜったい「漏れる」という論争を自治体としました。

 あ~あ!ひどいです。なんという低レベル!

 低レベルの設備では防げない「高レベル廃棄物」です。

  ☆

 春の台風が過ぎて、急に北風になり、寒くなりました。


雨宮日記 4月6日(土) 春の「台風」で日本列島は暴風雨

2013年04月08日 05時45分40秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月6日(土) 春の「台風」で日本列島は暴風雨

 4月1日から、勤務時間が「夏時間」に変更で、仕事がおわると明るくなるので、眠れなくてばてています。

 土曜日の午後は、本来は静岡市で憲法学習会ですが、体調が良くないので、朝、「すみません、欠席」のメールを出しました。

 則子さんは静岡市へ、午前中は静岡圏原水協総会、午後は続けて佐藤日本原水協代表理事(かな?)の学習会でした。

 帰ってこれるか?心配したのですが、夕方、無事帰ってきました。

 JR東海道線は、夜、強風で止まりました。

  ☆

 夜も友人と予定があったのですが、「台風」のため、電話して「延期しよう」ということになり、大雨のなか、のんびりと過ごしました。

 ブログを見直したら、昨年の4月の「爆弾低気圧」も、うまく仕事時間とずれて昼間でした。