雨宮家の歴史 3 父の著『落葉松』の3 はじめに(記憶)
☆雨宮智彦の父の著書から転載しています
「はじめに ( 記 憶 )
自分探しの旅は、幼い時の記憶から始まる。
「過去の記憶というやつは、あるところまで行くと急にスウッと消えてしまう。二十五歳までは明らかに登り道である。そこから前へさかのぼればのぼるほど、下り傾斜が井戸型になって、その先はもういくら覗きこんで見ても真っ暗である。」(本多秋五著『古い記憶の井戸』講談社文芸文庫)
その真っ暗な中に、八十歳の私の頭に残っている、最も古いと思われる記憶なるものは、次のようなものである。
「ある狭い急な坂道を、私は父にせかされて、足早に走るように下りていった。そして、その行く先に見たものは、真っ暗なかたまりであった」
幼い時の私の頭に残ったたったこれだけの光景は、それがどこであったのか、またいつ頃のことだったのか、ということは、永い間はっきりとせず、闇に包まれたままであった。
大岡昇平の『俘虜記』に次のような一節がある。
「その強い光の束の中を、背中に光を負った一人の俘虜が、光に追われるようにうなだれて、のろのろと右から左へ歩いて消えた。私はこの光景をこの収容所にいた間のいつ見たか、夜のどういう時間に見たかは覚えていない(中略)私の記憶に止まったについては何かその理由があったに相違ない。おそらく私は何か感動していたのであろう。」
大岡昇平の記憶は、この文章の発表時期(昭和二十四年三月)より考えても、三、四年前のことである。私の「坂道とまっ黒なかたまり」の記憶は、後察するように七十年も前のことであるから、それ以上に何か理由があったのであろう。
私は父に、私の能力以上の歩く速さを要求されて、拒否反能を起こしたに違いない。それも大岡昇平のいう感動の一種かも知れない。強烈な印象を私の脳のしわに刻みつけられて、消え去ることなく残ったのであろう。
ある日、私は『はままつ百話(明治・大正・昭和の近代百年の浜松の歴史的事件を挿話として纏めたもの)静岡新聞社』を見ていたところ、その中に「今は昔、歩道に正座し、陛下をお迎え」の記事があり、「歩道にござを敷き、紋付羽織姿で陛下をお迎えした市民」として写真が載っていた。
あっ、これだ!。私の記憶していた「まっ黒なかたまり」なるものは、この奉迎市民の着ていた紋付羽織の黒の色だったに違いない。
と、すると、私は父に連れられて陛下の行幸のお迎えに行く途中であったのだ。少し時間におくれて、父は私をせかせたのであった。
ではその坂道はどこだったのだろうか。
静岡県が編纂した『静岡県御巡幸記』によると、天皇の静岡県巡幸は昭和五年五月二十八日から始まり、浜松へは三十日午後、列車で到着された。それより車で、田町・池町・尾張町・山下町・追分(おいわけ)を経て和地山通りを三方原へ出て行在所(あんざいしよ)(飛行第七連隊)へ到着した。三方原は昔、家康と信玄との合戦場であり、現在は航空自衛隊になっている。
追分は三方原台地が急な斜面となって、下町の編辺に位置する。追分から六間道路と呼ばれる幅約十メートルの道が西から東へ延びていた。この六間道路に出るには、名残(なごり)(今の鹿谷町・国道二百五十七号線)の通りから、真向坂(まつこうざか)を降りるのが一番近かった。この坂の名の由来は、坂の下から上を見上げると、真向いに坂が立ちはだかっているからだと、言われていた。急な坂道であった。
当時、私たち一家は西の広沢町に住んでいたから、真向坂を降りた確率は高い。奉迎者の写真は田町であるが、父は追分で奉迎したのであろう。私に奉迎の記憶はないが、奉迎者の黒のかたまりだけは記憶に残っている。
天皇の行幸のあった昭和五年、私は小学二年生の七歳で、まだ何も世の中の事はわからない年令であった。前年の年末に起こったアメリカの株式市場の大暴落から、世界中に大恐慌が押し寄せて、日本も不景気の時代となり、世相も不安定となっていた。犠牲になるのは、農民・労働者など下積みの人たちであった。
行幸について、宮内大臣より県知事に、正式に伝達されたのは四月十四日であったが、表舞台の一般送迎・奉祝行事などの打合せと平行して、裏舞台の思想方面の取締りも行われた。
『御警護申上げる警官約二千三百名であるが、御通筋の警戒は勿論制服警官を以て任ずるが、その他は六百名の私服を動員して、思想方面を厳重に警戒し、来る二十日頃から私服隊は一斉活動を開始し、警視庁・神奈川県・愛知県各警察部よりは、特に敏腕なる特高刑事の応援を求めて、東海道線等による不良分子の本県潜入を防止する筈である』(東京日日新聞 静岡版 昭和五年五月七日)
この記事を裏付けるように、行幸一週間前の五月二十一日午前五時、県下一斉に取締りがあり、百余名を検挙した。この時、挙げられた某氏は『屋根裏青春記』と題して次のように書いている。
『昭和五年五月には、天皇行幸を契機として「五・二一事件」と呼ばれる静岡県下一斉の「赤狩り」が行われた。私もこの時、見付警察署(現・磐田警察署)のブタ箱に四十七日間もぶちこまれて、特高の取調べを受けた。二十四歳の時だった。」
この時検挙された者のうち、十名が治安維持法違反で起訴された。
このような事は、昭和三年秋の京都での天皇の即位式ーいわゆる御大典の儀式の時にもあった。雑誌「改造」を持つていたという理由だけで、上京中の青年は特高刑事の検束を受けて、東海道線の列車より降ろされて、ブタ箱にぶちこまれた。
内務省は一千万円(現在の価格で百憶円以上)の予算で、三万名の警官を動員し、そのうち六千名を京都に集め、旅館・料理店・下宿屋などから、精神病者や思想的注意人物たちを検束して、七千人を検挙した。
これらのことは、行政法第一条(いわゆる予防検束)によって、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで続いた。
物質の原子に、プラス電気の原子核と、マイナス電気の電子があるように、私たちの生きた昭和の前半は、華やかな表舞台とは裏腹に、陰惨な裏舞台があったということを戦後になって知った。私はこのことを念頭に置きながら「自分史」の筆を書き進めていくつもりである。」