雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4] 三、引馬野と榛

2017年08月23日 21時50分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4」

三、引馬野と榛

  妹も我も一つなれかも三河なる
         二見の道ゆ別れかねつる   (巻一ー二七六)

 この歌も高市連黒人の三河御幸の時のものである。黒人はもう一つ、巻一ー二七一で

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟 
潮干にけらし鶴鳴き渡る

 という歌がある。桜田は今の名古屋市内になるようであるから、還幸の時のものであろう。
 この「二見」が、遠江の引馬野と三河の引馬野への分かれ道であった。もっとも領地とも当時、引馬野と呼ばれていた資料は無いが、(遠江の引馬野の初出は『金葉集』の大治二年(一一二七年)である)仮に引馬野としておく。
 二見は三河の国府のあった場所であり、国道一号線と三百六十二号線の合流点でもある。三百六十二号線を東進すれば、本坂峠を越えて浜名湖の北を通って、追分、市野を過ぎて、遠江国府のあった見付に至る。いわゆるのちの姫街道である。追分あたりから南方、国道二百五十七号線一帯が今、引馬野と呼ばれている。
 『遠江国風土記伝』(寛政十一年、一七九九年、三河御幸より一一〇〇年もあと)に、引馬野を次のように記している。
 「城の西北にあり、高平にして方五里。水無く人家無し。通道三あり、浜松、宮口、各々気賀関に通ず、古くは猪鼻に通ず。或人云曰う、右の時和地、祝田、都田村の秣場たり、故に三方原と曰うと。元和九年(注:一六二三年)官政あり、以来百八村の秣場となる。」
 又『曳馬拾遺』(寛政六年、一七八八年)には、こう書かれている。
 「高町の坂を、或は天林寺の前を進みて名残村より登る坂を引馬坂といひ、是も三方原に続けり、すでにこの辺り引馬野という。」
 私の見聞でも、戦前、軽便鉄道でゴトゴトのんびり走った曳馬駅は殆ど人家はまばらであった。
 三方原台地は酸性土壌のやせ地で、その上乾燥しているので、植物も満足に成長しない。台地の植物はアカマツ林とススキの原で代表される。五月にはツツジ、秋にはハギ(ツクシハギ、マルバハギ)がこぼれるように咲く。(『浜名湖』)

 「引馬野」の榛を無理に萩であると解釈しているが、榛は水辺に生息するから、乾燥した引馬野台地には育ち難いのである。茜屋の故平松実氏が『土の色』で榛について詳説しているが、萩は染色用としては効用をなさないと言っている。

 『万葉集』には榛の歌が十四首ある。主に大和地方であるが、引馬野と伊香保の二首、計三首が東国である。
 かわりに萩は『万葉集』では一番多くて百四十二首ある(芽、芽子、波義、波疑)。もし引馬野の歌が萩であるなら、何故萩原と記さなかったのであろうか。万葉仮名はでたらめな使い方ではなく、使用方法が確立されていたと思われるからである。萩は萩、榛は榛である。

 長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)は『万葉集』に十四首の歌がある。奥麿も黒人と同じく宮廷歌人であり、奥麿、黒人は共に参河御幸に供奉した。十四首のうち、十六巻の八首は即興歌で、他の六首は全部、行幸の時の従駕歌である。

 即ち六九〇年の持統天皇の紀伊行幸の時の巻二ー一四三、一四四。七〇一年の紀伊行幸の時の巻三ー二六五、巻九ー六七三。そして七〇二年の「引馬野」の歌。最後に七〇六年の文武天皇の難波行幸の時の歌である。

 行幸の時には、全部従駕しているから、都にあって遠江の引馬野を偲んで作った歌であるとか、或は三河の行在所より遠江に出かけた時の歌であるという節もあるが、『遠江風土記伝』や『曳馬拾遺』の書かれた江戸時代中期でもっ牛馬の秣場だった所である。それより約一千年も前のこの三方原の地がどんな所であったかは想像出来るであろう。
 人家もない、無論宿泊すべき場所もない所で、新暦で十二月の初冬の寒い季節である。女官連中が時間(三河の行在所より三方原まで約四十キロある。約十里である。)をかけて出かけたであろうか。疑問とするところである。

 もう一つの引馬野ー即ち三河の引馬野は、二見の一号線より別れて東三河環状線を行くと御津海岸へ出る。この先に御幸浜がある。ここら辺りが三河の引馬野といわれる地帯である。
 この海岸通りを東進して豊川を渡る所が渡津橋である。これが古の東海道であったと思われる。大宝律令の古代駅家配置図に三河の国には鳥飼(そしとり)(矢作川畔)、山網(やまのな)、渡津(わたうづ)と駅馬が見えるからである。

 そして高師山を越えて猪鼻駅(新井)へ出て浜名川を渡り、栗原(伊場遺跡)、○摩(安間か、姫街道の分岐点)を経て見付の国府に出る。しかし、この道は官人の通る道で、一般はいわゆる本坂超えの姫街道を利用したようである。即ち『万葉集』の遠江の歌十五首のうち、あらたまとか、引佐細江とか、奥浜眼の歌が多いからである。
 御津の御馬海岸が三河の引馬野であるとすると、遠江の引馬野より大分歩がある。即ち音羽川の河口で水辺であるので榛(ハンノキ)の生育にも適していたであろうし、行在所より三キロの道のりであるから、日帰りも可能で行在所の宿泊の考慮を計る必要もない。

 壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)と菟野皇女と皇子たちが吉野を脱出した時、従うものは舎人(とねり)二十人、女官十二人あまりだったという。この参河御幸の時は、舎人や女官がどの位の人数だったか想像もつかないが、「衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた時の舎人や女官たちの姿は壮観であったろうと思われる。

 次章に説明するが、私はこの時、病気に(風邪でもひいたか、寒い季節であったから)かかって臥っていたのではないかと考察する。看病する女官たちを慰めるため、一日、御馬海岸で遊んだのではないか。

 最後になったが、引馬野の地名であるが、それを固有名詞と考えるから疑問が生じてくるのである。引馬は古義で、「引」は「ヒキ(低ー即ち低い)」、「馬」は「マ(地区、所)」の転呼であって「低い土地」と意味になるのである。固有名詞でなく、普通名詞として用いられたのであるという(『日本古語辞典』)。
 されば、御馬海岸は、音羽川の河口で渥美湾(三河湾)に臨み低い海岸地帯であって、それにふさわしい歌である。

 『万葉集』の中には、まだ解明出来ない歌や、地名に至っては、当時と現在では変ってしまって、はっきりとしない不明地は多々ある。
 引馬野もその一つなのであるが、固有名詞ではなく、普通名詞であって低い土地の名であると解釈すれば、榛も萩でなく、ハンノキであるということに落着くのではなかろうか。
 さすれば、三河御幸の時のいくつかの歌から三河湾周辺の土地が、その歌の主題となってくる。引馬野もその例外ではないのである。



『落葉松』「文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」 二、参河行在所

2017年08月22日 11時28分10秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」

二、参河行在所
 
 参河に至った持統太上は何処を行在所としたのであろうか。三河アララギの御津磯夫氏の「引馬野考」によると、それは宮地山であって、頂上に行在所跡の碑が建てられているという。(もっとも碑の建設は近年である。)現在も紅葉の名所でハイキングコースになっている。宮地血山は海抜三百六十三米というから、本坂峠(役四百米)よりは低い山である。東名高速道路の音羽・蒲郡インターを降り、名鉄の赤坂駅のそばにそびえる山である。山頂より三河湾をよく眺めることができる。名鉄と東海道が並行しており、音羽川も並行して流れて南へ下り三キロほどで、御津町御馬の三河湾に注いでいる。

 この御馬の地が三河の引馬野であり、河口が安礼の崎であるといわれているのが三河説である。上陸地はこの御馬の地であろう。宮地山に登るのにも近いからである。三河の国府も近くである。しかし、ここが安礼の崎であるとするには、地形的に少し無理ではないかと思う。御馬海岸も当時と(後述するが浜名湖(遠江淡海)もそうであったように)現在とは違っていたと思われる。

 三河御幸の時の、『万葉集』の十三首の歌は、五七ー六一、二七〇ー二七七である。五七は引馬野、五八は安礼の崎、五九、六〇は本文に関係ないので省略して、六十一は的方の歌である。そして二七〇ー二七七の八首は、五八と同じく高市連黒人の作である。そのうち、近江や山城の歌はこの時ではないかも知れない。還幸路より外れるからである。

 高市連黒人は『万葉集』に全部で十八首の作があり、全部旅の時の歌であるが、参河行幸の時が約半分を占める。黒人は宮廷歌人であったと見られる。そのうちの

   四極山(しはつやま)うち超え見れば笠縫(かさぬい)の島
    漕ぎかくる棚無し小舟     (巻一の二七二) 
 
 五八の安礼の崎について文明氏は三河湾の西岸の西浦半島の先端の御前崎(ごぜんさき)に擬しておるが、ちょうど伊勢より三河への航路より遠望出来る岬である。この四極山は大阪の摂津とも、又この御前崎に近い幡豆町か吉良町あたりではないかとも言う。笠縫の島は前島(兎島)であろう。文明氏も、摂津とすると笠縫の島は遠浅の海で海中になってしまうと言っている(『私注』)。同じように棚無し小舟が出て来るということは御前崎(安礼の崎)と四極山が近い所であることが暗示される。同じ作者の参河行幸の時の参河での作であろうかと推定される。

 引馬野が浜松であるため、安礼の崎を新井(現在の湖西市新居町)の海岸であるとする説がある。古代の浜名湖は現在とは大分おもむきが違っていて、太古天竜川が都田辺りより浜名湖に注いでいた名残りで、土砂の隆起により南半分は埋っていて、今の湖西辺りから磐田原台地へかけては台地の続きであった。天竜川は既に現在の位置を流れていたが、村櫛半島などは、まだ形成されていなかったのである。そして、湖のはけ口として、浜名川が一本遠州灘に注いでいたのである。新居の西南部に、そのあとと思われる水帯が現在残っているという。

 外洋は荒い遠州灘であるし、ましてや冬の季節である。小さな棚無し小舟が漂うのは無理であろうし、伊勢から参河へ行く途中の船の上からの作歌であると思われるので、四極山の歌と関連して、安礼の崎は、御津の地にしろ、御前崎にしろ、三河湾内であるというのが私の推論である。

 それにこの時代、既に新井という地名の書かれた木簡が、伊場遺跡から発見されている。
 「辛卯(かのとう)年十二月新井里人宗我部○○○」

 この年は持統五年(六九一年)であるから、参河御幸の十一年前に当たる。新井という地名が既に存在しているから、わざわざ安礼の崎と歌われることもないのではなかろうか。浜名川の河口には「崎」と呼ばれそうな岬は存在しなかったと思う。



新・本と映像の森 80(文学9) 丹羽郁夫『飛翔の季節(とき)』 

2017年08月22日 11時23分09秒 | 本と映像の森
 新・本と映像の森 80(文学9) 丹羽郁夫『飛翔の季節(とき)』 

 まだ日刊新聞連載中で、終結もしていないし、ましてや有名小説家ではないから(ごめんなさい!丹羽さん!)本になるかどうかもわからない。

 注目すべき小説だが、注目すべきみなさんが見逃すことのないよう、ここに明記しておく。

 日刊新聞は日本共産党中央委員会発行の『しんぶん赤旗』で、連載小説は8月22日(火)付きで228回目となっている。

 著者は丹羽郁夫(にわいくお)さん。タイトルは「飛翔の季節(とき)」。

 時代は1960年代後半から1970年代前半、主人公は土岐啄磨、ボクとほぼ同時代を高校生・大学生として同じように生き、ほぼ同時代を民靑同盟員・日本共産党員として同じように生きたといっていい。

 ボクは1971年春に民青に入り、1972年4月に日本共産党に入った。

 だから時代のいぶきを同じように呼吸していた点で啄磨には共感する。活動の濃密さも、住宅のひどさも、仲閒のすばらしさも。

 228回目の今日は1972年4月末である。

「228=第三章 再び起つ(12)」から引用する。

 「民青は、4月十一日から四日間開かれた「九中委」で、全国十二大会の決議草案を決定していた。また、去年の沖縄闘争の真っ最中に開かれた「七中委」で延期が決められた大会を、今年の六月七日から三日間開くことも発表された。・・・・
 大会決議案は「民新」の四月二十六日号にのった。分量は新聞の一ページと三分の二ほどでひどく少なかった。琢磨啄磨は、一読して何かおかしい、と思った。胸にずんと響くものがなく、気合いも入らない。ーどこか変だ、ひろく浅く総花的で、これが今後の二年間の指針になるとはとても思えない。
 啄磨はそう思いながら、机の上で考え込んだ。」

 小説のこの時点でボクたちは、激変の日、五月九日がすぐ間近に迫っていることを良く知っている。

 それを丹羽さんがどのような立場から、どのように描くのか、ボクたちは見逃せない。



文芸評論、②、「引馬野」の歴史的、地理的考察」「一、大宝二年(七〇二年)」

2017年08月21日 15時29分25秒 | 雨宮家の歴史
文芸評論、②、「引馬野」の歴史的、地理的考察」「一、大宝二年(七〇二年)」

 先ず、「引馬野」の歌が歌われた大宝二年(七〇二年)という年を考えてみよう。持統太上天皇の参河御幸によって、この歌は生まれたのであるが、持統太上は何故この年になって参河までの行幸を強行したのであろうか。孫の文武(軽皇子、十五才、六九七年生まれ)に帝位は譲っているものの、文武は幼少であって、実質的には実権を握っていたであろう。

 この年(大宝二年)より十年前のまだ天皇であった持統六年(六九二年)二月十一日に伊勢に行幸する計画を発表して、臣下にその準備を命じた。大体行幸の一ヶ月位前から、使いをその路の諸国に派遣して、行宮を造営せしめるのが慣行になっていた。この時は、三月三日出発の予定であった。これに対して、中納言の大三輪朝臣高市麿(たけちまろ)が農事の妨げになるとして反対した。中納言は壬申の乱の時の功臣であり勇将であった。天皇に反対意見を述べるくらいであるから、重用されていたのであろう。行幸となると、農民たちが使役に徴用されて農作業が出来なくなるからである。

 壬申の乱(六七二年)より二十年が経っていた。夫の天武天皇は内政の充実のために一度も外へ出ていなかった。父の天智天皇が没落した原因の一つに地方豪族の不満があったことを、持統天皇は覚えていたのである。それ故、反対を押し切って、予定より三日遅れたが、三月六日出発し、二十日に帰京した。大三輪朝臣は辞職した。

 その間、伊賀、伊勢、志摩の諸国を回り、今年の調役(納税)を免じている。更に遠江、参河などより供奉の騎士の調役も免じている。参河の御幸も、同じく尾張、美濃、伊賀、参河の国々の壬申の乱に功のあった人々を賞で、税を免じるためであったのである。事前に不満を封じておいて、持統無き後の幼少の文武のために後顧の憂いをなくしておくためであった。

 しかし持統天皇ほど、旅好きの天皇はなかった。殊に吉野へは三十一回にも及んでいる。吉野は大海人皇子(天武)が天智天皇のもとを去った時、一緒に隠棲した思い出の地であるから、尚更の感があるが、天皇の行幸となると、その盛大なること想像を超えるものがある。

 一ヶ月前から行宮を造営せしめる事は前記の通りであるが、大宝元年(七〇一年)の紀伊白浜行には船を三十八隻も造らしめている。
 随行となると車駕に雇従する官人ー御前次第長官、御後次第長官、夫々次官、判官、主典、御前騎兵将軍、御後騎兵将軍、それぞれ副将軍、軍監、軍曹等、堂々たるろ簿の盛観である。だからその行程も極めてゆっくりであって、大宝元年の紀伊白浜御幸は二十日もかかっている。即ち九月十八日に出発して、十月八日到着、十月十九日には帰京している。路次、諸国の田租を免じ、調役を免じ、国司、郡司の位階を進めることは行幸につきものの現象であった。それと大車駕の巡行は交通路の発達を助長せしめ整備されていった。

 大宝二年の参河行幸も九月十九日に伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五カ国に使いを派して行宮の造営を命じている。この年、『続日本紀』によると、「八月五日、駿河、下総の二カ国に大風吹く、百姓の家屋を壊し、作物に被害が出る。九月十七日、駿河、伊豆、下総、備中、阿波などの五カ国に飢饉が起る。使を派して救済せしめる。」とある。一般臣民は困窮を極めていたが、中納言は辞職しており、この時反対する者は出なかった。

 また「十月一日、ここに幣帛(みてぐら)を奉りて其のいのりを賽す参河国に幸せむとしたまうためなり。十月十日甲辰、太上天皇、参河に幸したまふ、諸国をして今年の田租を出すこと無からしむ。」とあり、その後の行程を表にしてみると次の如くである。( )内は太陽暦(概算)を示す。

  十月  十日(十一月  八日) 参河
 十一月 十三日(十二月  十日) 尾張
 十一月 十七日(十二月 十四日) 美濃
 十一月二十二日(十二月 十九日) 伊勢
 十一月二十四日(十二月二十一日) 伊賀
 十一月二十五日(十二月二十二日) 還幸

 この詳細は、「四、持統太上天皇」の項で述べる。
 『万葉集』には、この参河御幸の時と思われる歌が全部で十三首載っている。記録にはその旅程は出ていないが、回った国の順序を見ると、参河へは船で伊勢湾を横断して上陸したと見るのが至当であろう。即ち次の歌がそれを明らかにしている。

 巻一の六一、舎人娘子(とねりのをとめ)の従駕(おおみとも)して作れる歌

 大夫(ますらお)が得物矢手挿(さつやたばさみ)み立ち向かひ
   射る円方(まとがた)は見るに清潔(さやけ)し

 舎人娘子は舎人皇子と親子とあるから、持統太上の孫となる。円方は的方で、現在の三重県松坂市の東部、櫛田川の河口辺りという。ここから乗船する一行が船待ちの間、射矢をして腕を競ったのであろう。尚、船は前年の紀伊御幸に造らしめているから、それを使ったものと思われる。そして、その途中で読まれた歌が、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の次の歌である。

  巻一の五八、
   何処にか船泊てすらむ安礼の崎
    漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

 この歌も文明氏の『万葉名歌』に、「伊勢湾から海路を参河に行く時の作である」と見えるから、安礼の崎も、その間の海上のある岬をいうのであろう。安礼の崎については、次章で詳しく述べる。

 私が持統太上の御幸巡路に固執するのは「引馬野」の歌を解くには、この一首のみを分析しても不可能であって、参河御幸の時の十三首の歌の中の何首かが重要な関係を持ってくるからである。それと、御幸期間の長期四十五日間も解せぬ所である。


( 続く )


『落葉松』「第2部 文芸評論」① 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 1」

2017年08月20日 21時19分04秒 | 雨宮家の歴史
  『落葉松』「第2部 文芸評論」① 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 1」


  序
 
 万葉集の中の「引馬野」については未だに定説がなくて、歌の中の「榛原(はりはら)」とともに、その解釈は二分している。
 「引馬野」とは、万葉集巻一の五七の歌のことをさす。

 「二年壬寅に、太上上皇の参河国(みかわのくに)に幸しし時の歌
   引馬野ににほふ榛原入り乱れ 
          衣にほはせ旅のしるしに
 右の一首は長忌寸(ながのいみき)奥麿(おきまろ)の歌」

 元来、言葉は美しく、楽しいものでなければならないが、その解釈や読み方が定まらないということは、その美しさ、楽しさを半減させてしまうものである。

 土屋文明氏は『万葉名歌』(現代教養文庫)で引馬野は三河の「御津海岸に当てる説が、近頃は信じられるようになった。」と述べ、『万葉集私注』(筑摩書房)で、「三河であろうが、浜松に較べて御津の方は資料が弱い。」とも述べている。

 榛については、『万葉名歌』で「萩であるか、『はんの木』であるか、あるいはまた雑木であるかについて、事細かい論争が昔から繰り返されている。」と述べ、『万葉集私注』で「ハンノキの冬枯れが紅葉しかけた頃」と記している。(萩とは言っていない。)

 「衣にほはせ」については、『万葉名歌』で「必ずしも染色の手段を経て、実際に着物を染めるというのではなく、花なり紅葉なりの色の美しい中に入って、その色を着物に美しくうつさせなさいという詩的感興なのである。」「染色上の実際の技術的問題を引いて、この歌から榛の問題を論究しようとするのは、議論としても見当外れであるばかりでなく、根本的において歌を誤解しており(中略)一首の主眼は旅行く引馬野に匂い栄える様の紅葉(萩の花ならそれでもよい)を見て、あの中に入って着物ごとあの色になりましょうと即興的に歌っているところにあるのだ。それを忘れて理屈めく解釈をしてはだめである。」と言っている。

 古来、仙覚、契沖、春満、真渕、宣長等より近代に至って赤彦、茂吉外の学者によって『万葉集』は研究され、「引馬野」の歌の引馬野と榛についても各人各様の解釈がなされているが、何れも想像の域より出てはいない。

 歌の鑑賞にはその詩的解釈の方が重要であって、歌に現れた人物、土地、植物などは、二の次になるのであろうが、その土地に関係した者になれば、凡人の悲しさで、歌の解釈より、地名や植物の判定がどうしても重要となってくるのは致し方ないであろう。

 私は、昨年末、その曳馬の里に住みつくことになった。この機会に「引馬野」の歌について、少し感想をまとめてみたい。文明氏の意に反するが、理屈を述べてみようと思う。

  ( 続く )



雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 あとがき ー 月の沙漠 」

2017年08月19日 05時23分06秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 あとがき ー 月の沙漠 」

戦後編 あとがき ー 月の沙漠

 「自分史」という言葉を使うようになったのは、色川大吉が書いた『ある昭和史(自分史の試み)』(昭和五十一年、中央公論社)からだと言われている。その「はじめに」に、次のように書かれていてる。
 「私たちは何のために過ぎ去った半世紀をふりかえろうとしているのだろうか。歴史は病めるおのれを映し出す鏡のようなものだといわれる。昭和五十年を迎えた今、この本を庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民、私の〝個人史〟を足場にして全体の状況を浮かび上がらせようと試みた。今こそ、めいめいが、〝自分史〟として書かねばならないものだと思う。」
 私は、大体知っているが、子供、孫たちになれば、中谷家はどこの馬の骨か分らないのでは恥ずかしいだろうと思って、書き残しておこうと、二十年ぐらい前から資料などを集めてきたのである。

 祖父「卓二」については、陸軍被服廠関係の辞令と、被服廠の歴史を研究されている森谷宏氏(東京都北区在住)にお世話になった。
 「陸軍被服廠 中谷家文書 全三十四点」は、平成十五年十月上京した折、森谷氏と陸軍被服廠のあった赤羽に属する「東京都北区行政資料センター」に、資料専門員・保垣孝幸氏の立会いのもと寄付した。これで私の長年の肩の荷が降りた。病気や入院治療などのため遅れて、実危ぶまれた程であった。

 父「福男」は祖父の辞令や、短歌雑誌「アララギ」その他の文集から大体判明した。父は浜松地方における短歌界の草分け的存在であった。その歌から家族の動静を知り得た。
 
 私自身については、何も言うことはない。覚えている事実と資料を横の軸とすれば、私の信念を縦の軸として、織り成した織物のようであるが、使う人によっては、ゴワゴワと硬かったり、あるいはス・フ【ステープルファイバー】ののように肌に合わず、用を成さないようなこともあるかも知れない。読む人によって各人各様であるのは仕方ないと思う。そうかと言って、それぞれにおもねる訳にも行かず、自分流で行くほかなかった。

 一昨年の平成十四年十一月に、子供や孫たちが私の八十歳の傘寿を、岐阜の奥飛騨温泉郷の福地温泉で祝ってくれた。家内は金婚式にも出られず、この日も入院中で、出席出来なかった。無念という他ない。
 私たち夫婦の行く道も先が見えてきた。童謡「月の沙漠」の銀の鞍のラクダに、病める妻を乗せ、同じく病む私も金の鞍のラクダにまたがり、二人並んで月の沙漠をはるばると、北原白秋の詩「巡礼」(『白金の独楽』所収)の「真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す、真実一路の旅を行く」を思い出し、真実を探しながら砂丘を越えて行こう。

(平成十六年=2004年)

 編集後記

 父・節三が今年【2013年=平成二十五年】三月三日で九十才を迎えました。九十才の記念に、これまで父が書きためた自分史と文芸評論を一冊の本にしようと企画しました。子供たち夫婦三組(兄夫妻、私たち、妹夫妻)で財政を分担して、次男の私が編集しました。
 なんとか一冊の本としてできあがりましたが、明治から平成に至る日本の近代史~現代史の中の父や中谷家の歴史、また浜松の短歌などの近代文芸史としても、まとまった叙述になったと思います。
 皆さんが、この本を読んだ感想などいただければ幸いです。
  
          雨宮智彦(次男)

 
☆2017年8月のブログ注 まだこれから「自伝 補遺」「文芸評論」などを掲載します


「雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー52 ガン雑感」

2017年08月18日 16時53分51秒 | 雨宮家の歴史


「雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー52 ガン雑感」

52 ガン雑感

 ガンなど無縁と思っていた私に、ガンが発生していたことは、ひと昔前の肺結核みたいなものかも知れない。もっとも私の親戚で、ガンで亡くなった人も何人かは、いる。ガンについてよく知りたいと思って、私は本屋と図書館を廻り、ガンに関する本を読んでみた。借りた本は要点を書き留めておいた。
 「患者よ、がんと闘うな」と医師が書いたのがあると思うと、「がんと闘う・がんから学ぶ・がんと生きる」と患者が書いた正反対の本もある。ガンはこわいかと聞かれれば、こわくないとは言えない。死そのものについては、どのみち、早く来るか遅く来るかということであると考えたいが、私も戦時中は、軍隊で二十五才までの命と観念していたから、八十才まで生きている今日、命があったのが不思議なくらいである。
 人間って身勝手なもので、何才までも生きたいのである。人情ではあるが、ガンなど年をとらねば発生しないと思っていたが、まだ世の中の酸も甘いも知らない子供も、ガンに冒されることを知った。小さな罪のない子供までもガンに罹るのは不公平な世の中だと思う。

 先日放映された「こども・輝けいのち(小さな勇士たち)」は涙なしには済まなかった。東京聖路加国際病院の小児科病棟を一年間に亘って追跡取材したものであるが、この病院は一流病院で、ここに入院して治療出来た子供たちは幸せである、入院出来ずに苦しんでいる子供は、他に大勢いるに違いない。小児科武長の細谷亮太医師の書いた本(『医師としてできること できなかったこと』講談社+α文庫)があるが、彼は自分の専門は小児ガンの治療と決めて、子供たちと共に過ごした。子供のガンは主に白血病であるが、今では化学療法で治る率は多くなってきた。しかし抗ガン剤であるから、子供でも吐き気や、脱毛などの副作用が出て、可哀想に大人と同じように髪の毛が抜けてしまう。女子中学生が、かつらを冠って卒業式に登校することになる。
 「ママ、死ぬのって恐いね、死んだらどうなっちゃうんだろう?」
 私でも思うようなことを、小さな子供に言わせねばならない現実は悲しい。
 「わたし、いつまでがんばればいいの?」と看護婦さんに聞くが「どれくらいがんばればいいかは神様が決めてくれるわ。もうがまんできないと思ったときはきっと楽になるからね」そのようにしてお星様になっていった子供たちの名前をあげて、黄泉路で道を迷わないように祈りたい。
 彩(あや)ちゃん・容子ちゃん・麻衣ちゃん・Sちゃん・真美ちゃん・H君・Y君・サトシ君・ケンちゃん・Kちゃん・みいちゃん・りょうた君・マー君(病院で「お食い初め」をする)・あけみちゃん・洪ちゃん・祐子ちゃん・結実(ゆみ)ちゃん・ユウジ君・タケちゃん・サトちゃんたちの幸せを願って、合掌。
 これら子供たちに比べれば、私のガンなどガンとは言えないかも知れない。しかし、いつの日か、ガンがその本省を現わして、頸をもたげてくるかも知れない。
 「人はなぜ死を恐れるのか。死ぬのをいやがるのか。そんなに生が楽しいのか。生きているのはいいことなのか。苦しみに満ちた生なのに、わたしもなぜ死を恐れねばならないのか。しかし、この時こそ、ガンは始まっていたのだ。」(高見順『闘病日記』より。食道ガンにて死去)

 現天皇が、前立腺ガンの摘出手術を東大付属病院で受けたのは平成十五年の一月であった。歴代天皇(といっても、明治・大正・昭和の三代しかない)が普通宮内庁病院で治療を受け、皇居外に出ることはこれは現天皇の「合理的・機悠的医療」が宮内庁病院では「万全でない」と判断した結果であるが、特に父君、昭和天皇のことがあったからだと私は思う。
 昭和天皇は昭和六十二年九月、腸のバイパス手術を受けられたが、この時、既に「すい臓ガン」であることは専門医の見方で一致していた。しかし、本人にも告知されず、侍従長の発表は「慢性すい炎」で、国民にはガンと公表しなかった。東大病理学教室での組織検査で、ガン細胞は認められていたのである。宮内庁の閉鎖性が戦後も続いていることを証明した。そのため、大量吐血を起こし四ヶ月間も三万CCに及ぶ輸血が続けられた。三万CCという一人の人間の血を十回ぐらいも入れ替えたことになる。放射線治療をすれば延命を期待出来たという説もある。しかし、あくまでもガンを覚られないためであった。
 これらの事実を現天皇は深く認識していたと思う。二、三年前から、血液検査の前立腺に関する項目(PSAであろう)に「やや懸念される数値」が続いた(数値は不明)。そのため平成十四年一月二十四日一泊入院の組織検査(生検)で細胞ガンを認めたのである。これらは陛下の了解を得て発表された。年明けの一月に東大付属病院に入院して、前立腺全部の摘出手術を受けられた。転位もなかったということである。

 しかし、十月頃になってPSAが微増傾向にあることが分った。小数点以下二ケタであるこというが、これはどういうことであろう。前立腺を全部(無論ガン細胞も含まれる)を切ってしまえば、PSAは零になる筈である。私の場合、手術せずにガンが残っているが、内分泌療法でPSAは〇・〇一(最低)が一年半続いている。陛下には、まだガンがどこかへ転位して残っているのではないかと心配する。私より十才も若い。

 前立腺ガンの治療方法も進歩して、健康な細胞を傷つけない努力をしている。静岡県ガンセンターでは「陽子線治療」を始めた。放射線の一首であるが、従来のX線はガンだけでなく周わりの健康な細胞も破壊してしまう。それを避ける方法である。
 東京国立医療センターでは「小線源方法」(前立腺内にチタン針を八十~百個も入れて、針に含まれる沃度125から出る弱い放射線が一年程でなくなる)。その他「超音波方法」(丸山病院)など、何れも副作用の少ないのが特色であるが、まだ保険の効かないものもあって、治療費の高くつくのが難点である。

 私もいつまで内分泌治療が続けられるか不明であるが、これらの方法については、治療費の多寡に関わらず、深い関心を持っている。



雨宮日記 8月16日(水) 『鹿の王』を読む

2017年08月17日 07時52分47秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月16日(水) 『鹿の王』を読む

 上橋菜穂子さんの『鹿の王』を読む。文庫版。全4冊。3冊まで行った。きわめて面白い。ファンタジーだが、題材は人間と医学。

原水禁運動論で大事なことを思いつく。歴史を替えるような、今まで誰も言ったことのないこと。しかし、それが真実であれば歴史の再構成ができる、というものである。

 まだクマゼミが鳴いている。則子さんは、夏でばて気味。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー51 ストレス」

2017年08月17日 07時51分04秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー51 ストレス」

51 ストレス

 退院して通院治療が始まった。
 既に内服薬として、①「カソテック」(ビカルタミド=抗男性ホルモン剤)で、腫瘍の増殖を抑制する作用があるが、肝障害が起こる可能性があるので、それを防ぐために、② 「ウルソ」を併用する、③ 排尿障害を防ぐ「ハルナール(塩酸タムスロシン)」、④ 入院した時、高血圧食を出されたが、そのため血圧を下げる「プロプレス」,⑤ 下剤(三種類)、⑥ 入眠剤として「デバス(エチゾラム)」は抗不安剤としては強度の方で、不安をとり除いて、眠気を誘う薬である。
 これらの薬は一回に十四日分しか出せないので、二週間毎の通院となる。

 通院の度に検尿がある。紙コップに採尿するのであるが、排尿傷害だった身としては、最初はうまく採れず苦労した。慣れるに従い、湯飲みに二杯ぐらいのお茶を飲んで、尿意を催して来たら出かけると、ちょうど病院での採尿に間に合うようになった。いつも、オシッコはきれいですと言われている。

 二ヶ月に一度採血して、前立腺ガンの指標となるPSAを検査する。四週間に一度、前立腺ガンの男性ホルモンの分泌指令を狂わせて分泌を抑える「LHA・RHアゴニスト(酢酸リュブロリンー商品名「リュウブリン」、武田薬品の製造で、武田はこれで大当たりをした)」を腹の臍の下あたりに皮下注射する。これが、前立腺ガンの増殖を抑制するのである。ガンそのものが消えてしまう訳ではないので、注射を中止すれば、ガンは増殖して転位する。年末まで五回の注射でPSAが〇・〇九まで下がった.一年ぐらい経って〇・〇一となり(十四回の注射)これが最低値であったから一応ガンの転位とか増殖の心配はなくなった。薬も四週間ー二十八日分が出せるようになって、月一回の通院となった。
 二年目の年末には、注射も三ヶ月で一回で済むようになった。これはリュウブリンが濃縮されて、三倍の濃度になったのである。

 しかし、薬価は月一回分は五万六千円であったが、三月に一回分の方は九万八千円になった。これに飲み薬約五万円分野採血・採尿の検査料を合わせると十五万円程になる。保険で一割の支払いであるから、注射月は一万五千円必要で、注射のない月でも五千円はかかった。それに家内の入院費が月十五、六万円かかる。長男が毎月補助を出したり、保険が出たり、預金より下ろしたりと何かとやりくりしていたが、よく保ったものだと思っている。

 ガンの指標は減っていったが、体調は発病前と同じという訳にはいかず、頭がふらついたり、夜は排尿障害の薬のため二、三回はトイレに行くので、朝までぐっすり眠るということはなかった。トイレに行けば、オシッコは日中よりも量が多く出るくらいで、出なくて困る訳ではなかった。

 天気が良ければ,自転車で家内【当時、天王町に入院中だった】の入院先へ洗濯物を取りに行ったりして気を紛らわせていた。

 「ガン」を告知されたとき、最初に私の頭に突き刺さったことは、「ガン=死」ということであった。先生の方は、治るガンであるから、軽い気持ちで言ったのであろうが、受け取る私の方としては,何も知らないから、一般に流布されている「死」ということを考えたのであった。内分泌(ホルモン)療法で、PSAの値が四ヶ月ほ程経って〇・〇九と大きく下がって、明るさが見えて来たので、「死」の心配は一応遠のいたが、「ガン」自体は残っているのであるから、完全に安心する訳にはいかなかった。リラックスして忘れ去ろうとするが、どうしても頭の中の片隅に残るのである。

 師走も半ばとなった十二月十三日、朝から胃がむかつくようになった。口の中がいがらっぽく、生つばが出てくる。朝食からおかゆである。風邪薬の故かなとも思って、風邪薬はやめた。くず湯を呑んで身体を温めたりしたが、結局、その夜は一睡も出来ず、一時間毎にトイレに行って、夜の明けるのを待った。
 近所の胃腸専門の内科医は、「風邪のビールスが胃に来たのだろう」とナウゼリン(吐き気)やガスター(H2ブロッカー)の胃ぐすりを調合した。夜、ガンのくすりと共に、全部で十種類ぐらい一度に服んだところ、中毒症状を起こしたかと思うほど胃がまた気持ち悪くなり、十五日も夜半一睡も出来なかった。そうかと思うと何ともない日もあり、一日中口が苦くて不快な日もあった。

 二十五日、泌尿器科の診察の日、消化器内科へ廻わり、年が明けた一月十日、胃カメラ検査と超音波診断も受けることになった。それまで躰が保つかなと思ったが、果して二十七日の夜になって、また一睡も出来ない状態となった。三回目である。二十八日の明け方、病院の救急医療室へ連絡して出かけた。しかし、当直医は専門医ではないので、外来が始まるまで、整形外科のベッドで休んでいた。
 ちょうどその日は、年末最終診療日で、先日の消化器内科の先生の診察の日で一番の診察に廻してくれた。付き添っていた次男の嫁さんは、近くのコンビニで弁当を買った。

 結局、胃カメラ検査も繰り上げ実施することになった。バリウムを飲むレントゲン検査は二回程やっているが、胃カメラは初めてである。胃カメラがのどを通るのであろうかと不安であるが、年末でも受診者は順番待ちである。のどを麻酔するため、口の中ののどに近い方にドロップ錠を含んでいたが、しびれて来たようだなと思っていたら,飲み込んでしまった。
 順番が来て診察台に左を下にして横になると、鎮静剤の点滴注射を始めた。長い胃カメラファイバースコープを口の中へ入れたようであったが、うまくのどを通らないのか、私はゲーfゲー吐く時のような音を出して、最初は失敗であった、
 二回目は知らない間に入って、胃カメラの映像が映っている受像器が正面にあって、赤い胃壁が見えた。検査員は「胃はなんともありませんね」と、知らぬ間に胃カメラは抜かれていた。
 鎮静剤を点滴していたので、すぐ車椅子で内科外来のベッドへ行き、寝かされた。規定で検査が終わると二時間ほど休むことになっているからである。

 胃カメラを入れただけで、こんなに胃が何ともなくなるとは思ってはいなかった。二時間待つほどもなく、一時間ほどで看護婦が私の状態を見て「もういいでしょう」と医師の室へ連れていった。
 消化器内科の先生は胃カメラ検査の胃のカラー写真を私に見せて、「この通り胃は健在で異常はありません。ストレスが胃を刺激して胃酸過多の状態になったのでしょう。安定剤を出しておきますから、ゆっくりと余計な心配はしないで、リラックスして下さい」と言った。
 これも排尿障害と同じく、自律神経の不調よりなったと思う。「50 膀胱手術」でも前述したが、自律神経には交感神経と副交感神経があって、これらは脳の中枢からの指定により調整されている。それが何かの不安とか、ストレスが加わると極端に片よって機能するようになる。特に脳の迷走神経は胃の運動と胃酸の分泌に密接に関連して、様々な異常を起こす。
 私の場合も、ストレスが胃の神経を高ぶらせて、胃酸の分泌を促進させて、余分な胃酸が口の中に入って来たのだろう。口の中が苦く、胃が動くのが分かるのである。これがひどくなれば、胃潰瘍などになってしまう。幸いそこまで行かずに済んだが、それを防ぐには過労にならないように注意し、入浴して血行をよくすること、特に不安にならないように笑いが必要だという。

 現代人は、つい多忙に紛れて笑いを忘れているようだ。自分なりの人生哲学をもって、明るく前向きに生きてるに限る。希望・意欲・愛・快活・ユーモア・信頼・感謝などは、笑いに類化してストレスを緩和する。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」

2017年08月16日 21時26分59秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」


Ⅱ 50 膀胱の手術

 八月に入ると、また排尿障害が起き始めた。「生検」でガン細胞を採ってから、余計悪くなったような気がする。

 先生は、水分を充分に摂るようにと言うが、コップ二杯の水(二〇〇CC)を二時間おきに飲むことになった。ベルナールという排尿促進剤を夕方に飲む。それでも出ないので、病院へ行くと、不思議なもので出る。十日と十二日の二回、どうにも我慢ならず、夜間救急治療室で導尿してもらったら、気持ちよくなった。しかし、出た尿は五〇CCぐらいだ。膀胱は三、四〇〇CCぐらい溜まる筈なのに、五〇CCぐらいで尿意を感じて出たくなるのだが、出ないのはどういう訳だろう。先生には「勝手に導尿して感染症にかかるかも知れない」と叱られた。エコー検査をしても、膀胱には二〇ー四〇CCぐらいしか溜まっていないという。私のガンは大きくないので、尿道を圧迫していないから、尿意があっても出ないのは、自律神経の調整がうまく作用しないかららしい。

 自律神経には、血管を縮ませる交感神経と、反対に血管を開かせる副交感神経がある。交感神経が働くと尿道括約筋や前立腺が収縮して尿は出ない。ところが副交感神経が働くと弛縮して尿が排出される仕組みになっている。これは脳の指令にもとづくのである。私の場合は、この副交感神経がうまく働かないのである。交感神経が強く働いて尿が出なくなるのである。これについて後章の「51 ストレス」の項で詳述する。

 先生は私に「何か趣味はあるかね」と聞かれたので「文章を書いています」と応えたところ、怪訝な顔をされていたが、後日、この自分史(戦前編)を差し上げたところ、「成程」とびっくりされていた。それ以後、私を見る目が医師から患者を見るのではなく、医師と患者と対等になったような気がする。

 「われわれにいずれ訪れる病は「ガン」か「ボケ」のどちらかである」とある本に書かれていたが、私たち夫婦は、いずれどころかもう二人ともそれにそれぞれ冒されてしまった。

 八月十三日、私は入院した。結局、排尿障害を除くため、尿道から内視鏡を入れて、膀胱の出口を広くする手術を行うことになった。前立腺のガンはそのままである。手術に対する不安はあったが、排尿の方は安心した故か、うまく出るようになった。心理的なものだろうが、自律神経が良い方に作用し始めたのであろう。

 尿は排尿のたびに、採って自分の蓄尿瓶へ入れておく。一日に、平均二千CC前後溜まった。健康な成人男性の排尿回数は,一日に五、六回で、膀胱の容量は三〇〇ー四〇〇CCだから大体標準の容量である。入院して回復したことになるが、手術は二十三日に行われる予定であった。

 入院して驚いたのは、私の食事が高血圧食(塩分制限七g)となっていたことである。私が高血圧と診断されたとは知らなかった。七月三十日の第一回のホルモン注射をした時、計ったが、一三九ー七五であった。正常血圧の基準値は一三〇ー八五であるから、高値といえば高値といえる。しかし、高齢者は一六〇ぐらいまでは許容されるから、心配する程のことはあるまいと思った。
 手術までの十日間に、① 尿道の広さをレントゲンで調べた。内視鏡が通るかどうかである。膀胱内視鏡がどんなものであるか知らないがO・Kであった、② 下腹部の尿を溜めてのC・  検査、③ 内科の心臓音波検査、④ 肺活量検査、⑤ 蓄尿してのM・R・I検査、⑥ アレルギー検査。念には念を入れてである。

 この病院への入院は初めてではない。昭和六十二年(「第六部 43 閉店」参照)、突発性難聴で二週間入院して、その後十年ぐらい通院していた。家内も何年か通院している。いわば、病院から見ればお得意さんであるが、医師と患者の関係は逆転しているとしか言いようがない。これは医者となる教育に関係していると思う。
 手術日前夜と当日朝の二回、浣腸をして排便し、十時に右腕に皮下注射(痛み止め?)をした。十一時に手術室に入り、出たのは十二時だったから一時間であるが、三十分程は麻酔準備や、身体のレントゲン写真が写し出されて「君の背骨は曲がっているねえ」と先生に言われて、画面を見たところ、成る程真っすぐの一本棒ではなく、S字型に曲がっている。後日、先生に聞いたところ、内臓には影響ないと言われた。
 麻酔を打つ腰椎の場所を探し出し「〇・二グラム」という先生の声を聞いたが、そのうちに足先がジーンとして下半身の麻酔が効いてきた。手足を十字架にしばりつけられたような格好になり、見られたものではないと思うが、何せ感覚が何もないから、何をやっているのかさっぱり分からない。

 三十分程で終わってベッドに戻ったあと、寒気がしてきてガタガタ震え出した。手術室は冷房がよく効いていたから冷えたのであろう。掛け布団を一枚足して貰って寝た。
 膀胱洗滌が一本増えて点滴が二本になった。尿道にカテーテルが入り、洗滌液を溜めるビニール袋が点滴台の下についた。トイレなどに行く時は、ビニール袋をぶらさげた点滴台二本を押して歩かねばならなかった。尿はこの洗滌液にまじって排出される。

 手術日の翌朝まで食事はなく、昼は重湯(おもゆ)、夜と翌朝はおかゆ、昼から普通食となった。少し早いように感じたが、案の定、通じが止まってしまた。看護婦に下剤を催促したが、翌朝、先生に連絡するまで待てという。朝六時頃、やっと座薬を入れたが、一日便意があって気持悪かった。夜やっと下剤が処方されたが、躰に合わないか、一日にトイレに六,七回も行く始末であった。今までは、尿との斗いだったが、今度は便との斗いになってしまった。

 膀胱洗滌中、次男の嫁さんが三食時、来て助けてくれた。尿道にカテーテルが入っているので、うまく座れず立ったまま食事をせねばならなかった。それに温かい物を食べると、すぐ汗がふき出てくるので、団扇であおいで貰うという状態であった。この汗をかくというのも、自律神経失調の状態であった。

 手術して五日目の八月二十七日、尿道のカテーテルは抜かれて膀胱洗滌作業が終わった。三十日の回診時に、明三十一日退院の許可が出た。その日の午後、名古屋の長男夫婦が見舞に来た。やっと間に合った。二人共、この日に仕事の空きが出来たのである。「ガンはガックリしないように」とうまいことを言った。

 退院前夜は、安心したか明け方まで一度も起きずぐっすりと眠った。次男の嫁さんが来て、朝食後退院し、タクシーで二十日ぶりに家に帰った。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン Ⅱー49 ガンの発覚」

2017年08月15日 21時45分02秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン Ⅱー49 ガンの発覚」

 第八部 前立腺ガン

Ⅱ 49 ガンの発覚

 「ガンです」
 K医師(泌尿器科の主治医で病院の診療副部長)は、いつもの診察の時と同じように、カルテを見ながら、事もなげに言った。
 「えっ、ガンですか?」
 私は、どうすればよいか、そのあとの言葉が出てこなかった。その日は、二十一世紀になった一年目の、七月十日の火曜日であった。
 実は大分前から、オシッコがすんなり出ないので、病院へ行かねばなるまいと思ってはいた。本を見ると、尿道を取り巻いている前立腺という臓器が影響していて、それは血液検査で簡単に分かるという。
 E総合病院の泌尿器科で検査を受けたのは六月末であった。検尿、採血(前立腺ガンの指標と鳴るP・S・Aの数値の検査)、直腸内触診(肥大ではない)と、超音波検査があった。その結果、P・S・Aが八・四五で、四から十はガンを疑うため、前立腺の細胞を採ってガンの有無を調べる「前立腺生検」という一泊入院の手術を受けねばならなくなった。

 「(病名)前立腺腫瘍。
 (検査の必要性及び方法について)前立腺組織内にガン細胞が存在するかどうか、経直腸的超音波断層法を用いて前立腺生検を施行いたします。
 (検査の問題点などについて)検査時間は一〇分程度です。検査後の問題としては、排尿障害、感染(特に尿路)。血尿等が発生することがあります(通常、四~五日程度で消失することが多い)。これらの問題点がありますが。検査で得られる情報が多いことを考慮し、検査を受けることをお勧めします。」

 月が代わった七月二日の月曜日、十時半までに泌尿器外来へ行き、心電図・胸部レントゲンを撮り、十一時過ぎ、五階の五〇五号室へ入院した。
 先の受診の時、フリバス錠(尿道や前立腺の緊張をゆるめて、尿を出し易くする薬)、クラビット錠(感染症の防止)。アプレース錠(胃の粘膜の保護)等のくすりを処方されて、入院日まで服んでいた。
 一日入院なので、持って行ったものは、スリッパ・筆記用具などぐらいであった。着替えしてベッドに横になると、すぐ先生がみえて、抗生物質などの点滴注射を始めた。この点滴は、翌日の退院する昼前まで続けられた。
 午後手術が始まり、組織を採るとき先生が、「パンと音がしますが、何ともないですから」
と言った。なる程、そのあと子供のオモチャのピストルを発射する時のような音が、パンパンと六度した。前立腺全体より、平均的に六ヶ所から採るのが常識のようである。二〇分ぐらいで終わり、室に戻ってから十六時頃まで二時間安静で動けなかった。
 その後は自由であった。次男の嫁さんは入院する時と、夜八時頃、見舞客の制限時間いっぱいぐらいの時来てくれた。睡眠薬を服んだが、夜半トイレに三時、六時と起きた。八時昼食、昼食前の十一時半に退院し,一人で電車で帰った。
 尿の出血も四日の日にはきれいになり、冒頭に書いた通りの七月十日の「ガンの告知」となったのである。
 「癌 悪性腫瘍。癌腫と肉腫があるが、狭義では癌腫をさす・表皮・粘膜・腺組織にでき、治療困難で死ぬことが多い」(西尾実、岩渕悦太郎、水谷静夫編『岩波国語辞典 第四版』)
 即ち「癌」と言えば障害物で、人間にとっては究極的には死を意味する。今まで如何に多くの人びとが、それと闘ってきたか知るところである。私が絶句したのも自然の成りゆきであろう。
 「来週月曜日の十六日にご家族に説明いたしますから、一緒においで下さい。その日に骨シンチグラフィー検査も行います」

 私は院内の公衆電話から。次男の嫁さんの勤め先の保育園に連絡して「ガンだった」と知らせ、十六日は午後なら時間があるとのことで、先生の予約をとった。
 私は、その日の夜、名古屋の長男へ電話して「ガンだった」と伝えたところ、長男は絶句してしばらく無言だったが「ガンだった人でも、元気で働いている人は沢山いるから、心配しなくてもいいよ」と元気づけてくれた。
 十六日の先生の説明のある日まで、私が最も心配したことは、手術をするのかどうかということである。お腹を切られるのは、何とかして避けたい。もし切ると言われたら、死んでもいいから断ろうと思っていた。

 その日がやってきた。午前十一時から骨シンチグラフィー検査のための、放射性同位元素の薬を右腕に静脈注射した。全身に回わるのに時間がかかるので、検査は午後である。先生との話も午後なので、百貨店へ行って中元品の発送を頼み、弁当を買って来て、病院の待合室で食べて時間をつぶした。
 十三時半から約十五分間、次男の嫁さん同席で先生の説明を受けた。前立腺ガンの標識となるP・S・Aは最初に言われた通り、八・三五であり、ガンの進行度はC(ガンが前立腺の外まで広がった状態)で、中分化(中位)のガンであるという。ガン自体はそんなに大きくないそうである。それはそれで、切るのか切らないのか、どうするのかと思っていたら、切らないで内分泌治療法(ホルモン療法)をするとのことであった。思わず、「万歳」と叫びたくなるところであった。
 骨の検査は機械の故障で少しおくれ、十四時半から約四十分行われた。午前中に注射した放射性同位元素から、ガンマ線が放出され、ガン細胞の部分を写し出すのである。その結果とホルモン注射は次回の七月三十日に予定された。骨への転移はなかった。P・S・Aが五十を超えると、転移が疑われるというから、私の場合はまずその心配はなかった。

 最初の検診から一ヶ月が過ぎて、私のガンの現在の症状と,治療方針が決まった。それにしても解(げ)せないのは、難しく言えば「告知の問題」であるが、何故、私一人の時に、早ばやと「ガンです」と知らせたのであろうか。その後、家族同席で説明を受けているのである。この時、告知する方法もある。或いは本人は知らせずに、家族のみに知らせることもある。
 ガンが致命的な病気であるというイメージがまだ強いから、ガンと言われれば、死の宣告と受け取る人もいる。そのため、医師もためらうが、本来は前向きの姿勢で生きていけるようにするためである。私の主治医となったK先生の経歴などは、一切知らない。その人に治療をまかせるのであるから、患者からすれば運を天にまかせるしかない。
 最近はインフォームド・コンセントといって、医師と患者の側で治療方針について説明と同意をとる方法が重視されているので、患者も医師にまかせず、主体性をとるべきである。
 前立腺ガンは、進行が遅いので、多くのものは寿命より長くかかって増殖する。私のように八十代の高齢者は。ガンで死ぬ前に、他の病気で寿命がくるので「天寿ガン」と呼ばれている。先生もそれらの事を勘案して、ガンを告知しても差支えないと判断したものと私は考えた。


雨宮日記 8月14日(月)の2 夜の散歩

2017年08月15日 09時57分31秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月14日(月)の2 夜の散歩

 夜、涼しいので則子さんと散歩にいく。もちろんボクは車椅子。

 堤防と川の上をコウモリたちが飛び回っている。

 草むらで秋の虫が鳴き始めている。則子さんは耳が悪くなっているので(高い音が聞こえなくなってきている)、聞こえたり、聞こえなかったり。

 南側でAWACSの飛行。夜間離着陸訓練、タッチ&ゴーか。1回しか確認できず、わからない。朝鮮が緊迫しているので、臨時の飛行かもしれない。

 近くで大きな花火、誰が上げているのか。


落葉松 第一巻 ー自伝と文芸評論ー  目次

2017年08月14日 17時48分05秒 | 雨宮家の歴史
 過去、連載していた「落葉松 第一巻 ー自伝と文芸評論ー」は「Ⅱ 自伝 戦後編 48」までいっている。引き続き、「Ⅲ 後編 文芸評論」も含め掲載する。


 落葉松 第一巻 ー自伝と文芸評論ー
  
  目次

Ⅰ 自伝 戦前編

  落葉松
  はじめに(記憶)

   第一部 わが家のルーツ   

  Ⅰ 1  父の誕生
  Ⅰ 2  祖父の上京
  Ⅰ 3  中谷家の誕生
  Ⅰ 4  陸軍被服廠
  Ⅰ 5  日清戦争
  Ⅰ 6  東京開成中学校
  Ⅰ 7  谷島屋書店
  Ⅰ 8  アララギ
   第二部 生い立ちの記

  Ⅰ 9  母のこと
  Ⅰ 10 下垂
  Ⅰ 11 孝男叔父
  Ⅰ 12 祖母の影
  Ⅰ 13 広沢.町
  Ⅰ 14 西来院
  Ⅰ 15 谷島屋別荘
  Ⅰ 16 浜松工業学校
Ⅰ 17 林泉書房
  Ⅰ 18 鮮満修学旅行
  Ⅰ 19 徴兵検査
 
   第三部 在鮮記

  Ⅰ 20 軍需工場
  Ⅰ 21 召集
  Ⅰ 22 入隊
  Ⅰ 23 南鮮へ
  Ⅰ 24 敗戦
  Ⅰ 25 特別警察隊
  Ⅰ 26 釜山埠頭勤務隊
  Ⅰ 27 安養勤務隊
  Ⅰ 28 復員引き揚げ
  Ⅰ 29 回帰点
 Ⅰ 戦前編 あとがき

  Ⅱ 自伝 戦後編1
   
   第四部 山口県光市

  Ⅱ 30 朝日塩業
  Ⅱ 31 山口県光市
  Ⅱ 32 塩の歴史
  Ⅱ 33 枝条架
  Ⅱ 34 結婚
  Ⅱ 35 中村住宅二二六号
  Ⅱ 36 長男と次男の出生
  Ⅱ 37 台風

第五部 肉親を送る

  Ⅱ 38 母を送る
  Ⅱ 39 長兄の戦時死亡宣告
  Ⅱ 40 長姉の空襲死

 第六部 戦後の始動

  Ⅱ 41 バラック住宅
  Ⅱ 42 林泉書房の再開
  Ⅱ 43 閉店

 第七部 老人性痴呆

  Ⅱ 44 十軒町
  Ⅱ 45 うつ病
  Ⅱ 46 一番はじめは
  Ⅱ 47 入院
  Ⅱ 48 巣鴨刑務所

 第八部 前立腺ガン

  Ⅱ 49 ガンの発覚
  Ⅱ 50 膀胱の手術
  Ⅱ 51 ストレス
  Ⅱ 52 ガン雑感
  Ⅱ 戦後編 あとがきー月の沙漠

Ⅲ 後編 文芸評論
 Ⅲ 1 「引馬野の歴史的、地理的考察」
      序
一、大宝二年(七〇二年)
二、参河行在所
三、引馬野と榛
四、持統太上天皇
結び
 Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えるこ     となく』
 Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか
 1 はじめに
 2 戦後文学
 3 野間宏
 4 武田泰淳と堀田善衛
 5 大岡昇平
 6 島尾敏雄
 7 梅崎春生
 Ⅲ 4 雪腸と子規
      ー浜松詩歌事始 上編
 Ⅲ 5 左千夫・茂吉と城西 
      ー浜松詩歌事始 中編
 Ⅲ 6 大正歌人群 
      ー浜松詩歌事始 後編

編者あとがき

雨宮日記 8月14日(月) 掃除機が壊れた

2017年08月14日 17時45分48秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 8月14日(月) 掃除機が壊れた

 暑い夏、1階の掃除機が壊れた。則子さんが、急遽、電気屋に安いやつを買いに行ってきた。ついでに小さな自分用の扇風機も買ってきた。

 おじいちゃんの入れ歯も壊れた。歯医者には16日にしかいけないので、それまで我慢してもらわないといけない。

 昨日は、則子さんの弟夫婦が来てくれる。

 セミは鳴く数が減ってきた感じ。夏もピークを過ぎた感じ。