大きな声では言えませんが、本日2月10日は高校入試で忙中閑これを書いています。明日も日曜出勤ですぞ。さて3月17日の終業式には生徒に挨拶をしなければならない。そのとき卒業式は終わっていて高校3年生はいない。この教師が定年で辞めるということが伝わればいいだけである。授業とは勝手が違う。何を話すか考えがまとまらない。何らかのヒントを誰かがコメントしてくれたらそれに飛びついてしまおう。ブログ頼みです。
この手のスピーチは短いほど喜ばれる。なになにオマエは生徒に話すべき何の言葉も持たないのかと飲み友達の先輩教員の顔が浮かぶ。まさしくその通りでございます。思い悩みつつ 「目的と手段」 をキーワードにつぎのような小話が浮かんだ。
精神集中法を凝念と呼び、集会があればまずこの凝念で始まる。朝礼や合宿の食事時に凝念の合図でピタリ静寂が訪れる。合図は両手を2回打ち合わせて鳴らす。終わりは1回だ。当初は私にはまるで魔法のように思えた。凝念の目的を忘れて凝念を手段に使ってはならない。手は親指をあわせちょうど桃の形になるようにする。目的を忘れた状態とは口は開かないが隣の人と肘のぶつけ合いをしてふざける。最近では口を閉じることもできない場合もある。
赤ちゃんがこの世に生まれるのは愛すべき者だからだ。すべての赤ちゃんの0歳時代はまた格別である。この1年間だけは溢れるほどの愛情で包み込まれねばならない。これが基本であるという説に同意します。赤ちゃんを未来の労働力と見たり、年金保険金納付者と見なしてはいけない。赤ちゃんを手段にしてはいけない。人口爆発問題ではないから政治の介入は不要に思う。