玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*それぞれの姿

2020年11月19日 | 捨て猫の独り言

  牛島満は鹿児島市出身の陸軍大将である。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、沖縄戦において第32軍を指揮し57歳で自決した。これにより日本軍の組織的戦闘が終結し、6月23日は戦没者を追悼する「慰霊の日」となっている。牛島がいつも通り黙って裁可した最後の命令に「生きて俘虜の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし」が付け加えられたことで犠牲が拡大した。

 その孫の牛島貞満さん66歳のことを知った。東京生まれ、小学校の教員の現役の頃からこれまで20年以上沖縄に通い、各地で平和授業をしている。穏やかで優しい人だったという祖父が「最後まで敢闘」するように伝え、住民の被害を増やしたことを示し、「人が人でなくなるのが戦争です」「軍隊は住民を守らない。これが沖縄戦から学んだことです」と子供たちに伝えている。

 

 三島事件」から11月25日で50年がたつ。事件で三島と共に自決した森田必勝(まさかつ・享年25)は66年に早稲田大学に入学。戦後右翼の親米反共路線とは一線を画し、戦勝国による世界秩序の打倒を掲げた民族派運動に加わった。自衛隊の体験入隊などを通じて三島と交流が始まり、やがて三島の私兵組織「盾の会」で学生長を務めるようになった。

 その実兄で91歳になる治さんのことを知った。必勝氏は、5人兄弟の末っ子だった。生後2年半で父が、少し後に母がともに病死。16歳上の治さんに育てられた。治さんは三重県教職員組合に担がれる形で三重県議を6期務めた。非武装中立を持論とし「憲法9条の理念を発信しようと今でも思っていますよ」と話す。日朝友好を訴え、北朝鮮を4回訪ねた。治さんは三島の資料にも目を通した。米国追従に異を唱え、独立国としての日本を憂える言葉は荒唐無稽ではない。現代に通じると話す。

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