・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

うわべ教育

2010年10月06日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
学業成績の統計が出ると、教育のゆとりが過ぎるとか足りないとか、手前勝手な論議が繰り返される。
他の国に比較して、生徒の平均知能水準が下がってくればゆとりが過ぎたと言い、教師の自由時間が圧迫されてくるとゆとりが足りないと言い出す。

教育のゆとりを調整するには計画と実行、それから「ケッカをあらわす」ことが求められる。
スポーツ選手がしきりに口にするあのせりふと一緒である。
教育もスポーツも、ケッカは数値でわかるようにしないと認めてもらえない。
教育を受けた人がどういう人間になったか、スポーツを観戦した人がどういう感動を得たか、いちばんだいじなこととはほぼ無関係の数値競争が繰り広げられる。

数値を上げるには技が上がればよい。
そのためには技を懸命に教える。技は教えるが心は正さない。
学校の先生には、技の教え方が苦手の人もなかにはいる。生徒とPTAのうるさ方に、どうしたら機嫌よく3年間あるいは6年間居続けてもらえるかに腐心する。
塾や予備校の教師には技の達人が多い。技の教え方が巧ければ繁盛する。
こうして学校は仲良しといじめの混ざり合った遊びの場、塾が勉強の場、という生徒自身のの時間割ができていく。

遊びと技、教育のだいじな時期はそんなことで過ぎてゆく。その適齢は取戻しがきかない。
この国はあぶない。