いま日本語教育には、言葉の意味をただすことに力が入り過ぎているのではないか。
その様子が、FAQの質問から察せられる。
一つの文章が目に入ったら、言葉の一つ一つの意味を確かめていく、それが日本語を学ぶ基本である、などと教え込んではいないだろうか。
人間の生活には、自明の理、その事実の前には証明は一切無用ということがたくさんあり、言葉にもそれがあることを、再認識させていないのではないか。
誰が見てもわかることに学問という厄介なことはいらないのに、何から何まで意味を尋ねたがるように仕向けているふしがある。
応用のための解析なら別だが、聞いてどうするというのでもなく、ただ質問して答えを貰えばそれが学習なのだと思わせているようなところが頻繁に見受けられる。
人間がこの世に生を受けて言葉を覚えていく過程を無視して、別の頭で違う方向から言葉を理解させようとしている。
こんな筋違いの方法で、挨拶言葉や囃子言葉にまで、意味や由来をいちいち知りたがる、妙な突っ込み癖を、あえて育てているように感じられるのである。
こうなっては言語教育が乱学と呼ばれても仕方がなさそうの思うのだが、どうだろうか。