・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

乱学ことはじめ:2

2013年02月27日 | つぶやきの壺焼

言葉の教育に限らず、いま教育全般にある決して良いと言えない傾向は、何のための教育かということを、当事者がそれぞれの立場でしか考えていないことである。

弁護士が無罪ないしは刑罰軽減のためにあらゆる手段を講じるように、塾の教師のほとんどは、受験に成功するためだけの教え方をしているだろう。

仕事は評価されることによって生きるものと、みなが思い込んでいる。
おばかなスポーツ選手が、マイクに向かってアピールへの努力を得意顔で語るのも、評価第一のあらわれである。
わが社は宣伝活動に社運をかけますなどと、正気でないPRに努めているようなものであることに、彼らは自分で気づいていない。

仕事には評価が必要なのはあたりまえのことだが、よい評価を得ることが仕事になってしまうと、そちらに向かって仕事をするようになる。

塾の教師の目標は合格率が唯一のものとなり、相手の学校のほうは入学者数つまり集客率を上げることが最重点となる。
そうなれば、お互いに生徒の成績を評価しやすい方法が効率がよい。
こうして、採点の難易と教育の評価の難易に密な関係ができあがる。

採点を効率よく片付けるには、正誤判定○×方式が最適である。
日本語教育で言えば、「この言葉は正しいか」という設問が横行することになる。

言葉は、使われ方に適否はあっても、一つ一つの言葉自体に正誤という属性は存在し得ないのに、何でもかまわず正しいかどうかと問いかける。

こうして、教育の実質とは無縁の○×ゲームが、点数という役にも立たない魔物の獲得で、成長過程にある人々を喜ばせ、乱学の時が過ぎて行く。

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