「スジだコンニャクだと、グズグズ言うな」と、ときどき声を大きくする先輩がいました。
この言葉を思い出すと、スジと別ものとの間に、おでんのタネのように選び分けることとは逆の、共通点をもつ何かがありそうな気もしてきます。
相手がスジですから、共通点を持つものを見つけるには相当なこじつけも必要なのですが、奮闘努力も要らずに見つかりました。
スジとウロコです。
肉と魚の系統違いは、共通点探しをむしろ楽にしてくれます。気性の違う人のほうが共感を求めやすいこともあるのに似ています。
「琴線に触れる」のと「逆鱗に触れる」のと、「触れる」という所作も、対象によって結果は大違いだと、ふと思ったことが、実はこの話のはじまりなので、見つけた「共通点」と言っても、「触れる」のひと言がそれであるというだけのことなのです。
「歴史認識」というもっともらしい言葉を、全く違う意味で持ちながら、「共通点」にして隣の旦那を責めたてるどこかのおばさんと似たところもあり、これも共通点なのかなあと思わせます。
逆鱗はウロコの逆なでだけれども、琴線とは何だろうと考えたとき、弦楽器の線にはスジを使ったものがありそうな気がし、しかも一本の線をサインペンで描いてみれば、これはスジだと思ったまでのことです。
細々ながら共通点が見つかると、こんどはすぐには見えない相違点が、どこかに隠れているようにも思えてきます。
スジとウロコで何が違うのか、「琴線に触れる」のは自分の意識のこと、「逆鱗に触れる」のは他人の意識をもてあそぶ、あるいはないがしろにすることで、自分と他人という違いが一つ見つかりました。
まだありそうです。スジは細く、ウロコは広がっている、形の違いです。
「琴線に触れる」はどこか細々とした感覚のうごきですが、「逆鱗に触れる」となると、まかり間違えば国家間の争いごとにもなりかねません。
またもや逆を思えば、外交の場で相手国の宰相の琴線に触れれば、永遠と思われていた難題も、解決の道が開けるかもしれません。
そうかといって、琴線に触れるのは取引とは別のことですから、金銭では何ともならないでしょう。