夏が近づいてくると、はじめに鳴き出す蝉の声が、頭のどこかでなり始めます。
ことによると、耳鳴りかもしれませんが。
ニイニイと鳴くあの声を、はじめの声として久しく聞いてないような気もします。
昔は夏の蝉にも順序がありました。
近ごろはいきなりミンミンがやってくることもあって、もうでたらめです。
蝉の声と一緒に思い浮かぶのは、何かといえば「民意に問う」という、どこか蝉の鳴き声に似たあの決まり文句です。
民意とはどういうものでしょうか。
「民意に問う」という言葉があるからには、「問われる」対象らしいのですが、ゆるゆると生き続けてきて、まともに問われた覚えが一度もないのはどういうわけなのか、それも不思議の一つです。
何年に一度か、町内会館や小学校の体育館に行って誰かの名前を書いて箱に入れることはあります。
あの投票の結果が民意のあらわれだなどと思っている人がいるのでしょうか。
何を問われているかもわからず、国民の義務と教えられて、小さな紙切れと引き換えにするあの行為と、民意の構成部位とは、どうにも結びつき難いのです。
どこかにからくりが隠されていそうな、議員選挙というあの仕組みを、何かを問われて答えるものと考えるからわからないのかもしれません。
「問う」というときには何を問うのかは明らかにされません。
幾日かの間、名前とウケのよさそうな乱言と対立党の悪口と、お願いお願いの叫びだけは聞こえてきます。
一夜明けたとき、投票の集計結果が議席への着座権に変わっています。
「問う」と言われていた民意は、何も問われないうちにどこかで変身しているのです。
着座権を多く勝ち取れば、どんな矢が飛んできても、また民意を引っ張り出して盾にすれば、国の存亡も未来もそっちのけで、とにかく人気が上がるようタタカイツヅケルことができます。
民意の正体は、人気だったようです。