ある句を知っているかどうかが、世代の境目にならないかと、ふと思いました。
Wikipediaには、世代の「さまざまな人が世代を命名し多くの世代が存在する」という説明もあって、命名されないと世代ではないような錯覚も起きそうですが、そうでもないでしょう。
「ほぼ同時期に出生した一群の個体」という定義を借りれば、あることを知っている世代と知らない世代には、境目があるとしてもよさそうです。
やれうつな 蠅が手をする 足をする
という一茶の句があります。
文字を確かめておこうと、「やれうつな」で検索したら、蠅が手を「する」というのと「すり」という、ふたとおりの句が出てきました。
面倒なスレ話ですが、「蠅」が漢字なら「打つ」とここも漢字だろうとは思います。
標題に、はじめの五文字だけを使うには全部かなのほうがよさそうで、それを引きずってかな書きしておいたので、こちらは素直に「打つ」に戻せるのですが、「する」と「すり」はするりとはいきません。
Google には「関連するキーワード」というのが下のほうに出てくるので、そこで「やれ打つな蠅が手をする足をする」を呼び出してみたら、「もしかして: やれ打つな蠅が手をすり足をする」と第1行に現れました。
そうなると、どうやら「すり」のほうに分がありそうですが、小学校の国語の教科書には「する」と載っていたような気がするのです。
「する」~「する」のほうが覚えやすいので、間違って覚えたかもしれませんが、国語読本は手元にもうないので図書館にでも行かなければ、すぐにはわかりません。
まあ、本題は「やれうつな」のほうなので、「する」と「すり」は別のお座敷ということにしておきましょう。
「やれうつな」を持ち出したのは、最近日本海にミサイルが頻繁にぶち込まれるようになったからなのです。
ミサイルをなぜボカボカとうつのでしょう。
航路を定められない漁船に、ぶち当たらないという保証のない危険を冒してまで、ムダダマをなぜうたなければならないのでしょうか。
捨てないと置き場には困るでしょう、空間があるだけでは置き場にはなりません。
作りすぎた爆弾の保管装置の収容力不足を補うために、日本海は壮大なゴミ処分場になってしまう、そんなことでよいのでしょうか。