・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

権者のおうぼうは どこまでも続けらることではない

2014年12月01日 | つぶやきの壺焼

歌の文句にも出てくる「曲がりくねった道」は、人の行くところにいろいろな形で現れます。
七曲がりという名の曲がり道は、方々にあります。
そう名付けられていても、多くの場合、曲がりの数は七つどころではありません。
もし七つより少ない曲がり数のところを七曲がりと名付けたら、それはおかしいと言われるでしょう。
しかし、曲がり数の多いところは大目に見られ、その数字を変えろとは言われません。

曲がったことが大嫌いというのは正直者の言い換えですが、道の曲がり数の多さに文句をつけないのは、人々が曲がりくねりを好むからでしょうか。
そういう人たちも、自分の足で歩くとき、まっすぐ突きぬけられる歩道があれば、そちらを選ぶでしょう。
車に乗っていればこそ、はるかに大回りの七曲がりも意に介さないのです。
曲がり道が続いても、遠回りでも、乗っていて楽なほうがよいと思うからです。

まつりごとでも、法をまっすぐ読みとれば、だれもがおかしいと思う曲がった解釈がもちこまれ、一度曲がれば二度三度、七曲がりの数を超えても、習慣という乗り物に乗ってしまうと、なかなか降りようとしません。

最初の曲がりを司法が許したときには、「高度に政治性のある国家行為」であれば「その判断は政治部門や国民の判断に委ねられる」とされていました。
ところが、次に曲がるときには「高度に政治性のある」という条件は、遠心力の働きなのか、どこかに飛んで行ってしまっています。
あるいは、条件が振り落としきれずにぶら下がっていても、権者が高度に政治性のあることと思っておけばよいのだという、おうぼうな考えが働くかもしれません。

おうぼう、通常の漢字は横暴ですが、今回の横車は、横傍、つまりまっすぐでない行いのように思います。
しかし、それが常道でないこと、人々が体制という乗り物から大地に足をおろしたときは、きっとまっすぐな道を選ぶであろうことを、忘れてもらっては困ります。

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする