・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

成長の下手な生物:22

2017年09月21日 | つぶやきの壺焼

人間は、とかく思いどおりのことをしたがります。
思いどおりも度が過ぎれば、自由の広場にも居場所がなくなります。
倫理の領域から足を踏み外すこともあるでしょう。
それではまずかろうと、罰という修正方法が考え出されました。
罰を与えるには、前段階として、与えることの是非を問う"裁き"が必要です。

ところが、倫理にてらしようもなく、裁きが及ばないことがあれば、それには罰を与えることができません。
そこで別の方法が編み出されました。
制裁という、倫理とは縁の薄い懲罰形式です。

制裁は、裁きを制するという文字どおり、裁きを乗り越え、裁きなどそっちのけで多数の力によって個あるは少数に対して行われます。
もともと倫理にてらしようのないことですから、"気に入らない"ということが制裁の実行理由にもなります。

制裁は、通常、声明のあとで行われます。
制裁は、見せしめの意義が大きいので、こっそり実行したのでは制裁にならないという理屈なのでしょう。
制裁声明は、言葉の力の応用でしかありませんから、ほとんどの場合あまり効き目はありません。
ときには、声明だけに終わる場合もあります。

国単位の規模になると、制裁を受ける側にまわることは大きな恥辱ともされます。
しかし、国の最高権限を世襲で引き継いだ者が、その地位に居続けることしか考えなければ、恥辱の感覚などどこかに飛んで行ってしまいます。
そのうえ、だれかに気に入られることなど気にしないとなれば、制裁声明もどこ吹く風ということになります。

生物の成長は、なんらかの抵抗や障害を乗り越えることによって成就されますから、行動が抑えられたりさえぎられたりすることのない無法状態では成長という現象は起きません。
無法者のいちばん近くのグループ内にいる人びとが、放埓を抑えきれなくなったとき、そのグループの成長はパッタリと止まります。
成長が止まれば、自然の法則で、それ以降は衰退滅亡の道をたどるしかなくなるのですが、自分の居場所しか考えず、そこにいる快感以外に感覚を持たない者には、グループの消長のことなど意識の外で、国家間の制裁声明など全く意に介されないでしょう。

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