どうにもならない大人は、どうにもならなっかた義務教育で作られました。
どうにもならなかった義務教育の教室では、どうにもならなかった先生が、生徒に教えなければならないだいじなことを教えてはならないという、どうにもならないことを信じ込んで、時間を過ごしてきました。
信じ込んでいたのは自由の二文字です。
義務教育とは、教育する側とされる側の、教育しなければいけない義務と、されなければいけない義務との結びつきという、上つらだけの解釈で済まされてきたのではないでしょうか。
そこでは、「義務」を教え込む教育であると考えることさえ避けられてきたのではないかと思います。
「義務」を教える、その核心でなければならないのは、日本に国籍をもつには、日本の国民であること、日本の国は日本人のものであることを体中にしみこませることです。
教室で、一度や二度そんな話をしても心の中には入っていきません。
教える人の体中に、それがしみ込んでいて、義務を果たすまごころで教育が行われなければ、義務教育は完成しません。
日本人でない自由など、日本人にはないのです。
もし、公職にそんな人が就いていたら、さっさと追い出さなければいけません。