反体制が知識人の思考の底流になければならないものという妄信があります。
この奇妙な思い込みにはまってしまうと、それに沿った情報獲得源を選び、自らの思いと対立する考えにはいっさい目を向けないという強固な意志が、妄信を支えます。
知識人たちは、政権を握った政党と首相は、常にどこかが間違っていて、正され続けられなければならない対象であるという、動かすことのない仮説を立てます。
仮説も長くづづけば真実に衣替えします。
報道機関も、そういう人を巧みに操りながら、反体制を貫き通す偏った報道に明け暮れることで、"ブレない"という実態ない価値にしがみつきます。
TVや新聞でくりかえし言ったり書いたりすることが、大多数の考えを裏切らないものであるという、タイヤキのおもてうらのような、奇妙な、これも実態のない信頼関係がつくられます。
この信頼関係もまた妄信のうら面でしかありません。
新聞社や放送局は、自分たちが発信する"報道"と名づけたものが、"民意"を作り上げていくものという、前時代の心意気を持ち続けます。
まさに、"継続は力なり"なのです。
ある時代には、それを信じなければならなかったこともあります。
それが、時代の変遷で盲信に変わってしまっても、気付かないふりをし続ける、それも"継続は力なり"なのです。