分別という字には二つの読み方があります。
「ふんべつ」と「ぶんべつ」ですが、「ぶ」と濁るほうが今では多く使われています。
ゴミの分別という毎日の生活でのかかわりが多いからです。
毎日拡声器をつけた車がやってきて、二重袋はいけないとか何とかうるさいことを放送しながら、集めてあるゴミの中から自分たちの受け持ち分を積んで去っていきます。
曜日ごとに指定されて出すゴミが一種類の日には、一度ですっかりかたづきます。
と言いたいところですが、曜日を間違えたか、気にしなかったかどちらかの人がいたときは、その分が分別されて残ります。
出すほうも分別、持っていくほうも分別の分別ごっこです。
こういうありさまを「異常な分別文化」と呼ぶ人もいます。
ゴミの分別がなぜ必要なのか、あらためて考えてみると、焼却炉の能力のことより、どうやら分別して運ぶ人の仕事をなくさないためで、役所がそう決めてあるからと、それが答えのように思えてきます。
「ふ」の濁らない「ふんべつ」のほうはどうでしょうか。
この言葉はもう忘れられかけていて、人々が仕事上で持つ力が強くなってくると、忘れの度合いも増してくるようにみえます。
大臣やそれに並ぶ要職にある人に、取材者が意地悪なのか幼いのか区別のつかないような愚問を投げかけると、想定外の問いかけにドギマギして、なぜそんなことを言ってしまうのかというほど、分別を置き忘れてきたかのような発言をしてしまいます。
財界の要職にある人は、稼げればどこにでもとばかりに、さんざん悪態をついてよこす隣国にわざわざ出かけて行ってタネ銭をばらまきます。
そこでばらまくのはタネ銭だけでなく、大事な技術までオマケにつけて差し上げてしまいます。
結果は経済交流とも言えず、経済も技術も吸い取られるだけに終わっても、こんどこそはと、分別を忘れた行為がまた性懲りもなく繰り返されます。
そのとき、お商売だけが狙いの経済交流は、技術交流、文化交流などという、目くらまし言葉に置き換えられています。
「ふんべつ」という読み方の衰退は、分別そっちのけの行いが増えて、言葉にしにくくなったからなのでしょう。