謝るということは、人が自分のそのときの気持を表す行為です。
自分が悪かった、失礼してしまった、いえそれほどでもないなど、どんな場合にも行われる社交手法の一つです。
謝っている姿を見れば、誤っている人が、そのときどういう気持でいるかがわかり、謝られたほうはそこで気持が落ち着きます。
謝るということは、その人がどういうことをしたかの説明にはなりません。
どういう事柄であるかの説明にもなりません。
その人の、そのときの気持の表れで、いわば瞬間に消滅するものです。
なんでも謝っておけばその場がおさまりやすいからと、しきりに謝ってみせる、謝り癖のついた人もいます。
謝らせることに快感を覚える、クレーマーと呼ばれる人たちもいます。
謝りごっこは美風でもなんでもありませんが、同じ文化のなかであれば風習のひとつで悪いことではありません。
しかし、異文化の人を相手に、うっかり謝り癖を見せてしまうと、謝ったことが事実の証明のように扱われます。
日本人は簡単に謝り、謝るときには何かを持ってくると思われてしまえば、有罪無罪どころか捏ねて作り上げられた架空の罪を種に謝罪要求が始まり、延々と続けられることになります。
要求するほうは、謝罪要求という空虚な行為から醸し出される空気に酔い、どんどん気分が昂ります。
つい先日も、酔っ払いの戯れ言のような外国人の謝罪要求がニュースにまでなりました。
国の最高責任者に謝れという暴言ですが、ここで酔いが醒めなければ、次は八百よろずの神に謝れとでも言い出すのでしょうか。