・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

柳腰

2010年10月16日 | 政治の70不思議

言葉遣いが気に入らないから撤回しろとしつこく迫る。
まるで酒席の肴話のような、そんなやりとりが国立劇場で演じられている。

ネクタイが気に入らないから取り替えろというのと、たいして変わらない話だ。
言いがかりの理由を外交上の問題とこじつけているが、こんなことを論議しているぶざまなところを世界中にTVで見られてしまうほうが、外交上よほど問題が大きいではないか。
本当にしっかりしてくれなければ困るんだよ。


2010年10月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
鳥には、羽を動かさずに飛べるのと動かさなければ飛べないのとがある、と田村敦がラジオで言っていた。
飛ぶのが得意でない鳥と、好きな鳥があるという見かたはしていたが、飛び方の区別はしたことがなかったので、何か新鮮に思う。

模型飛行機にもバタバタやるのがあった。
凧には羽を動かすのはなさそうだ。からだ全体が羽ではバタバタしようがないから。

ある障害者介護施設に行ったら、ホールに鳥の剥製がおいてある。キジかと思って近づいてよく見ると、金鶏鳥だった。
金鶏鳥が羽をひろげたところは見たことがなかった。その剥製は、羽をいっぱいに広げている。
羽が極端に短く見える。尾が長いので開いた羽がいっそう短く見える。



(注)この写真はマロンさんのブログから拝借した別のものです。

                     http://blog.goo.ne.jp/maronn2004/d/20070519

この鳥は飛べないのだろう。飛べない鳥、置いてある場所のことを思うと、何か皮肉を感じて、その場で話題にする気にはなれなかった。

かたち

2010年10月14日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
シャープのEL-509Aという電卓は、永く愛用している逸品である。
対数、べき関数、逆三角関数まで入っていて、手のひらに乗るちょうどよい大きさ。
電池は8年も前に入れ替えたものだがまだ使える。

ケイタイのかたちもずいぶん変わった。
初めて見たケイタイは、アルミのドカベンを二つ重ねたほどの大きさで、磁石式携帯電話機といういかめしい名で呼ばれていた。

ハンドルをぐるぐる回して呼び出し符号を発信する。
呼び出し符号は、電話回線につないである加入者ごとに決められている。
長短織り交ぜた呼び出し信号が、電話回線につないである加入者全員に送られる。
呼ばれたほうから長音が1回送られると呼び出し操作をやめ、両方が受話器を上げて、そこから通話が始まる。

それから何十年も後だが、似たような大きさの携帯電話機をゴルフ場に得意になって持ち込んできた社長さんがいた。
ひとがティーアップしているのに、大型携帯電話機を使って大声で仕事の打ち合わせをする。忙しいところを見せたかったのだろうか。

少し前までは、電車の座席の向こう側に神主さんがずらっと並んだ。
ケイタイを開いたかたちが、神主が笏をかざしたような姿にみえるほど長かったのだ。

いまは化粧鏡をひろげているように見える。電車の中で化粧鏡は大いにみっともないが、男がその格好をしているのは見るも無残である。
もっと気の利いた形にならないものだろうか。

目的

2010年10月13日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
墓マイラーという趣味があるそうだ。
それを聞いてふと思った。
○○めぐりというトラベル・システムは、たずねた先で何かを求めるのか、それとも、たずねて回るそのことに意義をもち、得たものより足跡に重きが置かれるのだろうか。
そうだ、あれはルートのコレクションなのだ。

「めぐり」にはどんなものがあるだろうと、片端から挙げてみると、20を超えた。

ゴルフ場めぐり ボーリング場めぐり 温泉めぐり
滝めぐり 名水めぐり 水郷めぐり 湖水めぐり
岬めぐり 島巡り 洞窟めぐり 地獄めぐり
博物館めぐり 美術館めぐり 科学館めぐり 謡蹟めぐり
城めぐり 寺社めぐり 七福神めぐり
巡礼 霊場めぐり 墓めぐり 古墳めぐり

ずらっと並べてみると、まわったまわったで気の済みそうな、「めぐり」という名前どおりのものが多い。
どれか選べと言われたら、目が回りそうだ。

厚い床

2010年10月12日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
大喜利でタイヘイが花火のギャグをやってみせる。
音が出ない。力を入れる、それでも花火に似た音にならない。
くやしいからもっと力を入れる。やはりだめ。
そこは舞台の床のつくりが違うのだった。

タイヘイさん、さぞ参っただろう。
腱鞘炎にならなかったかな。

名人なら舞台に一歩踏み入れたとき床の堅さがわかるだろう。
達人なら舞台に上がる前に叩いて調べておくかもしれない。

考えたくはないが、叩いて調べているのをそっと見て、音の出ないのを知っていながら花火をやれとけしかけるイジメ人がいたのではないか。
花火は危険な遊びだ。

生き残り

2010年10月11日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
超大災害もののTVドラマが目立つ。
地震、火災、水害、爆発、現象はさまざまだが、主役はだいたい生き残り、助からなかった話はあまりない。

そうしなければ作者は世論に総攻撃に会い、次の作品の買い手がつかなくなることをおそれる。
「この物語はフィクションです」などという1行に身を託して、真実らしく仕上げる勇気は出てこない。
作者も生活上のセキュリティへの気配りに怠りを見せない。

ドラマだけでなくCMにも、セキュリティものが繰り返し繰り返し少しずつ画面の模様を替えてあらわれる。
耐震浴室のCMを見ていてふと思った。
大地震でも壊れないユニット・バス。もし巨大地震が起こり、家屋の外郭が壊れてバスだけが凛然と残ったとする。
そこにはあの歌が流れるだろう。 ♪ バース マジック凛 ~~

このお話はフィクションです。

とりつくろい

2010年10月10日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ゴメンネと書かれた遺書、その相手は誰なのか、自分ではないのか、という話があった。
自分は誰にも悪いことはしてこなかった。だが、とうとうダメな自分から抜けきれなかった。死ぬことは悪いと思っている。誰に対して悪いのか、あやまる相手は自分しかいない。

先生の問いかけに手を挙げて答えても、その答えが間違っているとアハハではすまない。ネットの掲示板でさんざん叩かれるという。
私もついふらふらと手を挙げる癖があって、答えられなかったのが1回、間違ったのが1回、まだ覚えている。
答えられなかったときは、先生の出した問題の意味がわかっていなかった、というより先生がそのとき何を話していたのか、まったく聴いていなかったのだ。
運悪く指されて立ち上がったが、用意してない答えが出てくるはずもなく、数秒の間を置いて「わかりません」と言うしかなかった。
「わからないのに手ぇ挙げちゃだめだよ」で済んだが、そのあと教室を出るとき「バカだなあ」とひと声かけて寄越したのが一人、もう一人は「よくやっちゃうんだよね」
この二人とは、半世紀過ぎた今も年1回は食事会で顔を合わせる。
向こうは忘れていると思うが、こちらは覚えている。
みな酒量が減ったから、「こんなのことがあったよなあ」とひとの失敗をネタにして言い合うまでには酔っぱらうことがない。

失敗に乗じて傷めつける、直接は言えないがケイタイならそれができる。
自殺者が毎年3万人も出る背景は、見る位置によって変わる。嫌な言葉だがこれがメセンというのか。

評価社会、誹謗社会、仮装社会、弥縫社会、みなくすんだ色をしている。

注意事項

2010年10月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
耳に注入して外耳道の固着物をやわらかくする薬を、耳鼻科で処方してもらった。
それを1日4回タポタポと入れてふやけさせてから固まりを取り去ろうという、家康式作戦である。

信長式に思い切って固いまま引っ張り出せば、痛いけれども1回でかたがつく。
あとは月1回ぐらい掃除してもらえばよい。
やわらかくして取る方法は痛くないかわりに、事前処理を根気よく行わなければならない。

ちかごろは処方薬と一緒に説明書を渡される。
見ると効能・効果の欄に「浣腸です」「胃酸を抑える薬です」と書いてある。
耳の中の固着物をやわらかくしますとは書いてない。
注意事項の最初の項目は「飲み合わせに注意が必要な薬があります」となっている。
別欄の用法にある「点耳」の2文字を飛ばしてしまえば、そそっかしい人は違う使い方をしてしまうかもしれない。

この説明書様式は、薬名で検索すれば、色・形・記号、名前・効能・効果、用法・用量、注意事項がパッと入力される便利なシステムによって手早く印刷されるようになっているのだろう。

まあとにかく、説明書の読み方は、読む人の自己責任においてということなのだ。

超えて越える

2010年10月07日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
超越という言葉がある。
超えて越える、重複でありそうな、なさそうな、この妙な言葉、さほど頻繁には使われない。
近ごろのもの言いは、意味のつかみにくい言葉を避けてはっきり言うからだと思いたいのだが、どうも実際は具合の悪いことになっている。
一つひとつ切り離せばわかりやすい熟語を並べているが、繋げて組み立てられた言葉が何を言っているのかわからないことが多い。このブログも似たようなものだという声が聞こえる。

たとえば、つい先日の総理の所信表明にあった「有言実行内閣の出発」である。
有言実行という中高生のクラブ活動用語のような言葉を、諸外国にもそのまま伝わる一国の総理の所信のなかで得意になって使うのも変な話だが、まず言っておいて必ず実行する内閣とは何のことを言いたいのか。そんなことをこれから出発させるのか。
自分が総理になったあのときはまだ出発点ではなかったのか。

いちいち腹立たしいからもう続けないが、まずこんな有様、目の前に何か光るものを出せば、ガチャムチャの光であろうと何であろうと、ごまかしの材料に使えると思っているのだ。

一昨日スーパーに寄ったら、ピカピカ光ったりんごが並んでいた。
拭き込んで光らせたりんごなど美味いはずがないのに、光らせれば売れるとまだ思っているのか。

目の前が暗くなる、サンタマリア。

うわべ教育

2010年10月06日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
学業成績の統計が出ると、教育のゆとりが過ぎるとか足りないとか、手前勝手な論議が繰り返される。
他の国に比較して、生徒の平均知能水準が下がってくればゆとりが過ぎたと言い、教師の自由時間が圧迫されてくるとゆとりが足りないと言い出す。

教育のゆとりを調整するには計画と実行、それから「ケッカをあらわす」ことが求められる。
スポーツ選手がしきりに口にするあのせりふと一緒である。
教育もスポーツも、ケッカは数値でわかるようにしないと認めてもらえない。
教育を受けた人がどういう人間になったか、スポーツを観戦した人がどういう感動を得たか、いちばんだいじなこととはほぼ無関係の数値競争が繰り広げられる。

数値を上げるには技が上がればよい。
そのためには技を懸命に教える。技は教えるが心は正さない。
学校の先生には、技の教え方が苦手の人もなかにはいる。生徒とPTAのうるさ方に、どうしたら機嫌よく3年間あるいは6年間居続けてもらえるかに腐心する。
塾や予備校の教師には技の達人が多い。技の教え方が巧ければ繁盛する。
こうして学校は仲良しといじめの混ざり合った遊びの場、塾が勉強の場、という生徒自身のの時間割ができていく。

遊びと技、教育のだいじな時期はそんなことで過ぎてゆく。その適齢は取戻しがきかない。
この国はあぶない。

愛煙

2010年10月05日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
『巷では喫煙者は極悪人を見るような目で睨まれています。嫌煙権を声高に主張しますけど、良し悪しはともあれ「愛煙権」というものもあるはずです。隅に隅にと追いやられ、いつか堂々とタバコが吸える天体に移住できればいいんですけどね。』
敬服しているお方のブログにこう書いてあった。
http://k23ot.at.webry.info/
タバコの値が上がるとき買い溜めをした人へのエール文とも読める。旦那様もその仲間らしい。

愛煙、嫌煙、ということばは使うが、愛酒、嫌酒とは言わない。愛飲、禁煙、禁酒はある。
酒は飲むもので愛するものではなく、酒は嫌がられるより禁じられる厳しいものということになる。嫌がられるのは酒ではなく酔っ払いで、度を過ぎなければ嫌われないだろう。
口にするものを禁じられるのはその人の健康上の理由からで、ほかの人には無関係である。だが、禁煙には、その人の健康上の理由の場合もあり、ほかの人に迷惑だからという場合もある。

愛飲はその人だけのことだが、愛煙は吸う人だけでなく、その姿を眺める人の感情もあるのだろう。
若い娘が人前でスパスパわざとらしくやっているのは見苦しいが、品格の備わった人がタバコをたしなむ姿は美しく見えることもある。
愛煙と言われた意味には、旦那様が悠々とタバコを吸っている。その姿を見られなくなるの寂しく思う気持ちもこめられているのではないだろうか。

会談

2010年10月04日 | 政治の70不思議
あの人と近いうちに話をしたい旨、呼びかけておいたと、メディアで取り上げられるようにわざわざ言う。
会うという予告を1週間前にしたが、相手もさるもの、音沙汰がない。
しかたなく実際には電話で済ませる。

ちょっと挨拶にでも来いと言いたかったのか、会って話をするのがいやだと断って欲しかったのか。
中身は意味不明でも、会談が行われたように取り繕う電話怪談。
そんなことでも、政治やさんは仕事をしたつもりになるらしい。
幸せな人たちがまだいる。

味の値段

2010年10月03日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ピーベリーというコーヒーがあるという。
TVドラマに出てきたときは稀品種のように聞こえたが、四葉のクローバーみたいなものらしい。
少ないから珍重されるだけで、品種が違うのではなく、奇形だから収穫量の割合が少ないのだそうである。

普通のコーヒーの実のなり方は2粒の豆が向かい合った形なのだが、稀に1粒で丸い形の実がなることがある。
珍しいものは味が違うと思われてありがたがられるというわけ。
味に変わりはないのに、もったいぶって出されて、「あら、おいしいわ」と、通と呼ばれる奥様のひとことがかかれば、そこで格がぐっとあがる。
もちろん値段もお高くなる。

食べ物飲み物の値段は、味によって変わってよいと思うが、高い値をつけると味がよくなると思ってしまうのは、やはり錯覚だろう。
売るほうにとってはありがいことに違いない。

厚顔

2010年10月02日 | 政治の70不思議
だれが聞いても、うそだと思うことを、記者会見で言い切る。
それが政治だと言いたげなことも顔に出ている。
根が小心なのか、カメラのほうをにらみつけることはせず、いつも眼がそれている。

こういう人が一国の運命を背負っているのかと思うと、背中が寒くなる。

今は、もう秋・・・知らん顔・・・もしていられない。