「分類語彙表」の大分類が、体、用、相となっていること、通常対義とされやすい語にも、離ればなれに分類されているものがあることは前に述べた。「正」と「誤」が、「正」は相の語として、「誤」は体の語として扱われているのだった。
あることをとらえて、これは「正しい」かと問われると、ほとんどは返答不能になる。
ものごとには、正しい面とそうでない面が必ずあるので、そんな返事が出来るかと、唇が動かなくなるからだ。
正しいだけのこととか、正しいだけの言葉とか、そんなものがあるはずがない。
ものごとも言葉も、状況、場面、時と場合との関係で正しく見られたりそうでなく見られたりする。
だから「正」は相の部類の言葉なのだろう。
「誤」のほうはどうだろうか。
「帽子は履物として作られる」と言えばそれは誤りだとすぐ指摘できるだろう。実体は「誤」であることをとらえやすい。だから「誤」は体だったのか。
こう考えてはみたものの、自分ながら都合のよい理屈だけで、突っ込めば例外も外れもどんどん出てきそうではあるのだが。
食べたくなってあわてて煮たおでんはまだまだである。
言葉の教育機関と呼ばれるところでやっていそうな話がある。
いくつかの言葉を取り出し、その一つ一つが正しいかどうか判定せよなどという問題を出して考えて来いという。宿題のつもりだろう。
こういう出題は、教師側にとっては最も安直、簡便で都合がよい。
しかし、学生側にとってはいい迷惑なのである。
元来判定できるはずのないことに、正しいかどうかを見極めよと言われる。相撲の行司ではないから、むりやり軍配を挙げることを迫られては困惑する。
そのあとでまたむりやり説明する「正解」のあり方次第では、言葉の持つ意味の幅を狭めたり、考えの広がりを阻害したり、学生の頭はだんだん固まっていく。これでは何を勉強しているのかわからなくなってしまう。
すでにある事例を調べつくし、判定を下すことが智識の積み重ねになるのだと教える。
ネットで検索と知恵袋を活用すれば、自分では何も考えなくても答えは出る。
それで言葉の勉強をさせられる、日本の文化を理解してもらえると、キョーイクシャという仕事をしている人は思っているのだろうか。