・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

当たりはずれ

2011年07月15日 | つぶやきの壺焼

連日猛暑、天気予報を見なくても夏だ。
予報というものは、当たりはずれ半々と思っていれば、逆になっても腹が立たない。

役所の人の対応が気に入らないと、会うたびに同じことを繰り返し持ち出す人がいる。自分の言い出すことは何でも聞き入れられると思っていると、いちいち腹を立てなければならなくなる。

言ったことは聞いてもらえるか聞き流されるか、半々だと思うことにしようと決めた。
丁半の目と同じで、その時の自分の運で決まるのなら文句の言いようがない。
二度三度同じことをぼやくのは、それだけ繰り返して負けたことになる。

干上がった土に何か食べ物はと探す鳩も、よく見ていると同じところはつついていなかった。

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花の向き

2011年07月14日 | つぶやきの壺焼

ひまわりの花は、陽のほうを向いて咲くものと思っていたが、そうでもないらしい。
咲く向きは、花の思い思い。
それが自然。

全部の花が、一斉に同じほうを向いて咲いたら、どこかの国のあの行進を見ているようで、気味が悪かろう。

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猛暑

2011年07月13日 | つぶやきの壺焼

梅雨の間はあまり蒸しもせず、明けるのも早かった。
待っていましたとばかりの猛暑。

陽射しがきつい。花壇も乾いた。

周りに花が咲いていなければ、回り道までして立ち止まる気にはならなかった。

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ギョ

2011年07月12日 | つぶやきの壺焼

その昔「ギョギョッ」という言葉がはやった時期がある。
人びとが何か驚きを望んでいた時代だった。

いま、人は驚きよりも騒ぎを求める。
その騒ぎも、ただ大声を出してわめき散らすだけ。
カラ騒ぎとも違う。カラさえない、音だけの純粋雑音。
それに多少の動作を加えてギャグと名付け、執拗に繰り返される。

見に集まった人たちは、笑いに似た音を合奏する。
あれは笑いではない。面白くもないのに笑っている真似をする、偽笑。

N町大劇場の騒ぎと、音だけであることが共通点。

驚きを求めない人間の集団は、やがて衰退し、国は溶けていく。

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エージング

2011年07月11日 | つぶやきの壺焼

エージングという変な言葉が二つある。

一つは aging で、老齢化、少ししゃれた意味では熟成のこと。
この間に e を入れた、というより e を外し損ねた ageing は老齢者層差別のことだそうである。

人も物も年を経ると古くなる。
だが、年を経てない物を古く見せるのもエージングと呼ぶらしい。

見せかけだけでなく、芯からくたびれさせるエージングもある。
製品の故障は初期に起こりやすいので、時間軸を実際より縮めてぐいぐいいじめ、いずれ起きる故障を、はじめのいじめで起こさせてしまえば、売ってからの故障が減るだろうという寸法である。
製品の保証期間は初めのうちだけだから、そこで故障が減れば無償修理が減る。全体の寿命が短くなっても、それだけ次の物を早く買ってもらえるという勘定が成り立つ。


Yahoo 知恵袋に珍妙な質問が出た。
○○集会とはなんですか、と聞いている。
TVニュースでは見かけなかったが、なんだろうと思って検索してみると、You tube に切り替わってその集会の模様を動画で見る仕掛けになっている。
質問形式の宣伝。よくあるプロパガンダ手法で、ずいぶん古い手に見えるが、世代はぐるぐる代わるから、若い人はそれを古いとは思わないのだろう。

こいうのもエージングなのだろうか。

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ウラ技

2011年07月10日 | つぶやきの壺焼

「危険な関係」という映画があった。

ジャンヌ・モロー、ジェラール・フィリップ主演、セロニアス・モンクのピアノ。
この曲をソニー・ロリンズが吹いたアルバムもある。

危険な関係は、たいがい「ウラ技」で結ばれる。

MS-IME 2010 では裏が漢字でワザがカナの「裏ワザ」、これが最初に出てきた。

「放射性汚泥、再利用のウラ技」という日経系のネット記事がある。
こちらはウラがカナ。

カタカナ書きの入った熟語は、カナ部分に力の入っていることが多いが、「うらわざ」にも力点がふたとおりあるらしい。
「わざ」が肝心なのか、「うら」に何かがあるのか。

この放射性汚泥再利用は、いまいちばん始末に困っている放射性汚泥を、下水道の「循環のみち」に呼び込んで、下水道そのものをエネルギー資源にしようという構想である。
汚泥からメタンガスを抽出すれば自動車燃料に、また固めれば肥料にも火力発電燃料にもなる。下水管の排熱は空調にも使えるというのである。
下水だからといって、「ウラ」呼ばわりしたのでもないだろう。

わからないのは、「放射性物質」をどうするのかということ。
加工途中で分離できるといっても、分離すればすぐ消えてなくなるものでもない。
その先どうするのか、そのあたりに話の「ウラ」がありそうで、何とも「危険な関係」の臭いがぬぐいきれないのである。

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駐車場

2011年07月09日 | つぶやきの壺焼

役所に駐車場ができたことを知らせるビラが入っていた。
おや、いままで車がたくさん止まっていたところは駐車場ではなかったのか。

行って見る。図書館へ換本のついでに、というよりもそこを通り抜けたほうが近い。
料金精算器が据わっていて、駐車区画もきちんと出来上がっていた。

そうか、これまでは庭、構内用地だったのだ。

駐車場できたその日に車去り

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語蔵:4

2011年07月08日 | つぶやきの壺焼

「分類語彙表」の大分類が、体、用、相となっていること、通常対義とされやすい語にも、離ればなれに分類されているものがあることは前に述べた。「正」と「誤」が、「正」は相の語として、「誤」は体の語として扱われているのだった。

あることをとらえて、これは「正しい」かと問われると、ほとんどは返答不能になる。
ものごとには、正しい面とそうでない面が必ずあるので、そんな返事が出来るかと、唇が動かなくなるからだ。
正しいだけのこととか、正しいだけの言葉とか、そんなものがあるはずがない。

ものごとも言葉も、状況、場面、時と場合との関係で正しく見られたりそうでなく見られたりする。
だから「正」は相の部類の言葉なのだろう。

「誤」のほうはどうだろうか。
「帽子は履物として作られる」と言えばそれは誤りだとすぐ指摘できるだろう。実体は「誤」であることをとらえやすい。だから「誤」は体だったのか。

こう考えてはみたものの、自分ながら都合のよい理屈だけで、突っ込めば例外も外れもどんどん出てきそうではあるのだが。
食べたくなってあわてて煮たおでんはまだまだである。

言葉の教育機関と呼ばれるところでやっていそうな話がある。
いくつかの言葉を取り出し、その一つ一つが正しいかどうか判定せよなどという問題を出して考えて来いという。宿題のつもりだろう。
こういう出題は、教師側にとっては最も安直、簡便で都合がよい。
しかし、学生側にとってはいい迷惑なのである。

元来判定できるはずのないことに、正しいかどうかを見極めよと言われる。相撲の行司ではないから、むりやり軍配を挙げることを迫られては困惑する。
そのあとでまたむりやり説明する「正解」のあり方次第では、言葉の持つ意味の幅を狭めたり、考えの広がりを阻害したり、学生の頭はだんだん固まっていく。これでは何を勉強しているのかわからなくなってしまう。

すでにある事例を調べつくし、判定を下すことが智識の積み重ねになるのだと教える。
ネットで検索と知恵袋を活用すれば、自分では何も考えなくても答えは出る。
それで言葉の勉強をさせられる、日本の文化を理解してもらえると、キョーイクシャという仕事をしている人は思っているのだろうか。

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語蔵:3

2011年07月07日 | つぶやきの壺焼

言葉の美しさも面白さも、つながりの滑らかさから生まれるようである。

この局しか寄席のTV放送をしてないと、わざわざ出演者が説明していた落語を聞いた。
噺すほうは真面目に演っているがさっぱり面白くない。
稽古したとおりの言葉を使っているから、外れているのでもない。
言葉と言葉の間のちょっとした時間のずれで調子が合わない。
多分マを取るように仕込まれたのが、マに余分な時間がくっついているのだ。余分と言っても何分の1秒でしかないのだが、マが几帳面すぎるのだ。

話す言葉も書く言葉も、つながり方次第で受け取られ方が変わっていく。
拙文などは悪文の見本のようなものだが、すらすら読める本は、多分すらすら書かれているのだろう。

Yahoo知恵袋には、ごく短い文章を一つだけ示して、これは正しいですかという質問をよく見かける。難問であり、珍問でもある。
正しいと言うには誤りでないことを言わなければならない。

さてこの「正しい」と「誤り」という相対するかに見える言葉の周りには、どんな言葉が集まっているだろうかと、「分類語彙表」でそれぞれを探し出した。

相対する概念であれば、それほどページを隔てずに載っているものと思ったが、掲載場所は、かたや65ページ、こなた146ページと離ればなれなのである。
ページが離れているということは、別のところに分類されているのだろうと、ここで初めてこの本の「分類項目一覧」を見ることになった次第なのである。

大分類は、1.体の類 2.用の類 3.相の類となっている。
そして「正しい」は「相」であり、「誤り」は「体」なのだ。
うむ、そうか、と感じはしたが、感じを書き表すのはこれがまた面倒で、ちょっとマをおかないとまとまりそうもない。

なんともマの悪い話だが、まだまだ続きそうだ。

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語蔵:2

2011年07月06日 | つぶやきの壺焼

「分類語彙表」を眺めていて、気づいた。
分類項目一覧という表が10ページにわたって載っている。
さまざまな日本語の熟語を集めた本だから、項目一覧表があるのはあたりまえなのだが、何十年も使っていながら、自慢にもならないが、そのページを見ていなかったのである。

集められた言葉の群れには、意味が似ていても少しずつ違うものが寄ってきている。
書いた文が何かしっくりこないときは、どこかに、はじめに思いついたほかの最適の言葉があるはずで、こうして行き詰ったとき、こんなのはどうだと、ちらちら見せてくれる、それだけで十分だったのである。

星の数ほどもある言葉に、これは○○詞、□□詞であると札をつけ、またその上に△△語、▽▽語などと違った類別を施し、どうだ日本語は難しいだろうなどと言ってみたところで、日本文化の自慢の種になりはしない。
面倒なだけで役に立たない分け隔てを、ブンポーと称して夢中になって覚えこませようとする「日本語教育」が流行しているらしい。

この本には、そんなばかげた区分けは一切してない。そこが何十年もお世話になっていて嫌気のささないこの本の魅力なのだと気づいた。

さて、ではどういう分類をされているのか、また長くなってしまった。もう一日ずらそう。夏に入ったばかりで、まだまだ日は長いから。

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語蔵

2011年07月05日 | つぶやきの壺焼

人間が話したり書いたりする言葉のもとは、脳のどこかの記憶装置に貯められている。そこから口に伝わったり手を動かしたりする通り道が、うまくつながれば確かな文言となり、渋滞すれば意味不明の譫言になる。

何カ国語もすらすら話す人は、道のつけ方がどんな場面でもうまくいくような、上等な頭を持っていなさるのだろう。
私らの木偶あたまの場合は、交通整理に外付けの道具を持ち出さないと、さばききれないことがある。

半世紀以上お世話になっている道具がある。
国立国語研究所の作った「分類語彙表」という、中表紙と奥付まで入れると366ページの本である。
手元に置いてときどき開くと、本の書き込みを嫌っているくせに、その時の気分で書きこまれた字が見つかることもある。新語など書き込まなくても忘れはしないのに。

毎日1ページずつ覚えてしまえば、うるう年なら全部頭に入る勘定になる。
この間小学校の同窓会で、いままでそんなことを話したこともなかった人が、三省堂のコンサイス英和を全部覚えてしまったと言っていた。
そんな真似はとてもできない。

久しぶりにこの道具を引っ張り出したら、これまで気づかなかったことを見つけた。
「分類語彙表」という書名どおりの、言葉の分類の問題なのだが、話が長くなるので、また明日にしよう。

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筆様

2011年07月04日 | つぶやきの壺焼

模様の美しさは紋様の見事さから感じられるものだが、筆で書いた文字が美しく見えるのには、何が必要だろうか。

筆力、筆勢、筆精、筆鋒という言葉はあっても、筆様はないだろうと思っていたが、MS IME2010 は筆様をスイと出してきた。不思議だ。


『言葉は使われたときに誕生する』
そうだ、これはいける。
「誕生という言葉はいつ生まれたのですか」の態の、ふざけているのか、ただ聞いてみて勉強しているつもりになりたいのかわからないような質問への明答が生まれた。

 

駅にきれいな楷書のポスターが貼ってある。
一字一字じっと見ていると、どこかに破たんがある。
だがそこを整えた結果、全体が美しくなるかどうかはわからない。
あまりにも整頓を極めた顔には、底意地を疑わせるような何かがあるように、筆様も整い過ぎては壊れることがあるだろう。

しかし、筆というものは、使いもせず書きもせずにどうして数が増えていくのだろうか。

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節電

2011年07月03日 | つぶやきの壺焼

ホームの自販機に「販売中」の貼紙。

「故障中」というのは、自販機の初期のころにときどき見かけたが、「販売中」の札は初めてだ。

売るための機械なのにとじっと見ると、明かりが一つもついていない。
節電対策のためだった。
電力消費を抑えてコストを低減するためではなく、節電という大義ための、対策実施広告なのだ。

電車が暗いから乗るのはやめという人は滅多にいないと思うが、自販機が暗ければ売り上げは落ちる。
暗くしなさい、貼紙をしなさいで、そのために二回りぐらいの手間をかけているだろう。
その結果、売れにくくなっている。
やっていることが、どこかちぐはぐでおかしい。
こんなことを言うと、「非国民」とののしる人はいないと思うが、「非協力」となら言うかもしれない。

それでもおかしいことはおかしいのだ。
なぜかと考えたら、節電対策とは、論理的でも感覚的でもなく、多分に古代文学的なところがあるらしいのがわかった。

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夏雲

2011年07月02日 | つぶやきの壺焼

一昨日の夕方、珍しく竜巻警報が出た。

気象の警報を出すとき、なぜ「発表しました」と放送するのだろう。
「発表」という言葉は、不思議な感じを持っている。
「してください」と要求するときに使うと、もっともらしく、また偉そうに聞こえる。
「します」「しました」という実施の予告や報告では、何かもったいぶったよう、どこか得意げなようで、自分で言うのは気恥ずかしい。
なぜだろうか。
喜ばれるかどうか、役に立つかどうかは別として、実効より実行という表皮活動の表現に聞こえるからだろうか。


竜巻警報、それを聞いたとき、何の準備をしたらよいのか。
安全ベルトを巻き付ける柱は、集合住宅にはない。
ベランダに手すりはあるが、何が飛んでくるかわからないところにずっと待ってはいられない。

あ、そうか、むやみに外に出るなということだったのか。

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災害

2011年07月01日 | つぶやきの壺焼

消防車の音、救急車の音、パトカーの音。
どのあたりかと覗いて見る。

赤い車、白い車。
眺めている人に、あわてている様子はない。
近いことは近そうだ。

わざわざズボンを履き変えてまで出ていくのは面倒だから、野次馬には不参加とする。

午後郵便を出しに外に出る。
すぐ近くの家だった。ガラス窓に丸い穴が開いて、中は真っ黒。
冬だったら大変、いや、夏でも大変か。

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