いつも咲き初めが遅いと思っていた並木の桜が、もう咲いていると、バックパックの小父さんが教えてくれた。
駅前より少し遅いはずだがと、確かめに行ったら2本だけが七分咲き。
並んでいて同じように見えても、日当たり加減以外に早咲きのわけがあるのか。
人間でさえ先に出たがる理由は説明できないのに、桜の木に聞いても答えてくれはしない。
来年になれば、その木が早咲きなのだとわかるだろう。
覚えているかどうか、もちろん見るほうがの話。
いつも咲き初めが遅いと思っていた並木の桜が、もう咲いていると、バックパックの小父さんが教えてくれた。
駅前より少し遅いはずだがと、確かめに行ったら2本だけが七分咲き。
並んでいて同じように見えても、日当たり加減以外に早咲きのわけがあるのか。
人間でさえ先に出たがる理由は説明できないのに、桜の木に聞いても答えてくれはしない。
来年になれば、その木が早咲きなのだとわかるだろう。
覚えているかどうか、もちろん見るほうがの話。
マナーにも功罪があると言ったら、なんだそれ、と思われるだろう。
たとえば食事のマナーにしても、こだわり過ぎれば味が落ちる。
高級なコース料理に特上の味が望まれるのは、マナーで落ちる分を差し引けば、ちょうど頃合の味になるから、という変な計算が頭に浮かんだ。
ビジネスのマナーが、ジャーナルの敵になる例を先日知った。
同じテーマの記事の国外版を、国内版とは違えて出す新聞社があるという。
言葉の違いではなく、意味を変えてしまっている、そんなことが、という話である。
そういう事実を、他社が気づかないはずはないのに、どの他社も、気づかないことにしてその事実を報じない。
これも、仲間内をおとしめないというビジネスのマナーなのだろう。
なにかあれば「知らせることがメディアの使命だ」などとうそぶくのもマナー、ことさらに足を引っ張らないのもマナー。
人間のすることは、マナーに縛られるたびに、どこかにずれが出てくるように思うのだが、どうだろうか。
待つことと待たせることと、どちらを好むかと問われて、待たせるほうが楽でよいと答える人は、待たせる仕事をしている人に多い、と言えるだろうか。
仕事では待たせても、自分の生活では待たせたくないという人もいると思うから、はっきり答は出ないのだが、仕事で待たせられるのは、私生活の待つ身よりも我慢しにくいことが多いと思う。
それでも仕方なく待つ。
待つことを極端に嫌う人は、その仕事から離れるしかなくなる。
こんなことを書き始めたのは、ひどい放送局があると聞いたからである。
言われていたとおり、9時30に放送局に入る。
さんざ待たされて、放送は19時から、そして放送時間はたったの2分間。
まさかの事実、作り話ではなさそうだ。
とてもかなわないので、それ以後放送の仕事は一切お断りにしたという。
局のほうも、断らずに去ってもらう作戦だったのかも知れない。
「待たせとけ」の一言に、みょうちくりんな優越感をもち、ときどきそれを味わいたくなる、そんなけちな根性の持ち主も、広い世の中には多分いるだろう。
一方、待つ身になってみることもなく、待たせるのは嫌だという人もいる。
待たせるということは、習慣というより、趣向なのだろうか。
間違いと間違いごととは言葉の響きが違う。
「ごと」が付くと、近頃はやりの「事案」という奇妙な呼び方に変えられる。
「事案」は、古い辞書にはないが、問題になっている事柄をそう呼ぶらしい。
間違いごとも、問題にされない小さなことは事案とは呼ばない。
問題にされると、事案と呼ばれ一種の格が付く。
問題にするというのは、また間違いが起きないように考えるよりも、騒ぎ立てる材料にすることに重心が偏りやすい。
間違いであると指摘されれば、原因究明という作業が自動的に要請される。原因究明は問題の膨張剤にもなる。
ついやってしまった本人以外に、周りの人たちにその染みがだんだん広がっていく。
家族、友人、知人、組織体、社会と、悪者仕立ての染みの面積は広がり、ついには目立たなくなってしまう。
また間違いが起きないようにするのは、本人以外にはできないことであるのに、管理体制強化などと決まり文句を発表したところで事案という名札ははがされる。
そこで本人にくだされる罰や処分には、同じ間違いを防ぐ力はない。
罰や処分は、外側からそれを眺める人たちの気が済むだけのことでしかない。
間違いに本人が気づき、それを本人が改める気になり、本人が間違いを起こさないように努める以外に、同じ間違いを防ぐことはできない。
ほかの人が起こす間違いは、また次の、その人の問題なのだから。
間違いも、やはり浜の真砂なのである。
面白い言葉遣いの記事を見つけた。
「○○をするのはもったいありません」
会話の中で、やや信用の置けそうな人がそういう言葉を冗談まじりに言ったら、あの人が使う言葉なら本物だろうと、印刷原稿に使ってしまった。
正すことを知らず、盗むことに走る。学ぶは真似ぶであるという駄洒落を信じて。
多分そんなところだろう。
その言葉が記事のなかで正常であり得るかどうかまで、印刷校正がしっかりしている時代は過ぎ去っててしまったのだろうか。
こうして、珍語がまじめな顔付きで堂々と印刷物に現れる。
ひところはやった「もったいない」には、「ある」という対義は“ない”のに、それを“ある”ことにしてしまったという、ちょっとややこしい話である。
同じ音の言葉から、関係のなさそうなことがありそうに、あるいは関係の浅そうなことが深そうに見えてくる。
そういうことがときどきある。
だじゃれの胞子のようなものがあって、そうさせるのかもしれない。
「じ」という言葉の一部からは、「自」と「耳」はかかわりがありそうに思えてくる。
自尊、自負、自我から、耳をだいじに、耳をふさぐ、勝手聞きなどが連想される。
耳をだいじにというのは、耳の病気に罹らないよう、耳に不用意に傷をつけないような心がけのほかに、聴く耳をだいじに、ひとの話をだいじに聴くという意味である。
不都合な話には聴く耳を持たず、耳を半分ふさぐような半聞かざる、自分の都合に合わせた勝手聞きでは、話している人の意は聴き取れない。
初めて耳にすることでは往々にしてそうなる場合が多い。
思ってもいなかったことが耳に入ると、回転の良い脳の働きでたちまち翻訳が始まって、こういうことなんだねと、自分の以後の行動に都合よく、あるいは自分が考えていた筋書きに合っていくような返事をする。
勝手つんぼの逆バージョンである。
耳と自の直結、土門拳がしきりに説いていた「モチーフとカメラの直結」を思い出す。
自負は、頭と心の硬直の種になる、と言われる。
そのとおりだと思う。
似た言葉の自尊とは、何かが違うのだがさて、と思ったら、それは相の違いらしい。
前後関係から攻めたのでは、鶏卵問答同様になる。
そういうときに、相というのは付き合いやすい。
自負は自尊に比べるとやや内向き、では、外に向く自はないのか。
自我というのがあった。
我と言いながら外向きの感情であるのが面白い。
去年の春以来マラソンで7回優勝している川内優輝の「自」はどういう相のものだろうか。
「僕は指導者に従うつもりはないし、自由にやりたい」
そうか、飛びぬけた成績は、ある一点から眺めた相からは生まれないのだ。
仕事も勉学も訓練も、喜びを感じながらがよい。
ぼやきながらの仕事も、徹夜に近い勉学も、叩かれながらの訓練も、内に感じている喜びは、他人にはわからない。
どう嬉しいとか、何が楽しいとか、口に出たことは、すでに変容の後だから、実際のところはわからない。
「今のお気持ちは」というインタビューの決まり文句があるが、あれはインタビューの本質を知ろうとつとめない、もっとも安直な儀礼様式である。
安直な方法で無理やり引き出された言葉はカスに近いから、そこにほとんど真意は残っていない。
喜びの気持ちは、ひとこと、崩れる顔、何気ない所作に、瞬間に現れすぐに消える。
どう感じているかは、相対しているそのときに受け取らなければわかるものではない。
仕事も勉学も訓練も、喜びを感じながらがよい、と繰り返すが、喜びを感じなければそれをしないと言い始めれば、何かに喜べるという尊い感覚には、たちまち鈍化が始まり、小さな喜びさえ湧く力を失ってしまう。
喜びは、悲しみ、苦しみよりも敏感で繊細なものらしい。
電車の回生電力活用は、ずっと前からあちこちで行われているが、回生電力を電車を動かすこと以外に使っているところはあまりなさそうである。
電気はどこでどう使おうと電気であることに変わりはないのだから、駅の構内に使うぐらいは自由だろうと思っていたが、何かが邪魔になっていたのだろうか。
直流と交流を別もの扱いにしていた古い考えもそのひとつかもしれない。
もっと範囲を広げれば、駅ビルにもと思いつきはしても、回生の量を考えればそこまでは及ばないとも言えるが。
と言って話を絶縁してしまうのでは、まだまだ考えが浅い。
どんなことにもエネルギーを使い切れない分、あるいは使いカスは出てくる。
それが熱になって飛んでいってしまうのは、無駄でしかない。
無駄になっていた膨大なエネルギーを、これまで放っておいたのは、捕まえ、集め、貯めておくためにまたエネルギーが必要で、そのほうがかえって無駄だと、みなが思い込んでいたからだろう。
捕獲、集積、貯蔵を効率よくすれば、地球温暖化などとぼやいていないで、それをまた利用する道も拓けてくる。
技術者群は、問題提唱を業とする人たちのご都合にしたがって、それを前提にものごとを考えていたのでは、思考のエネルギーを一生かかって無駄にすることしかできないのである。
(参考)
「駅の省エネの実証実験」
http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2013/0130-b.html
次世代エネルギーのメタンハイドレートを探って海底からメタンガスを取り出す地球深部探査船「ちきゅう」が、愛知県沖で作業を始めた。
いよいよと思うと、これだけのことでも未来に明かりが差しそうな思いがする。
この探査では、ガス以外にもうひとつ、知らなかったことがわかった。
探査船「ちきゅう」は、2005年7月に完成していたが、2008年3月に、スクリュー6基のうち3基の歯車部分に損傷が見つかり、2009年2月まで稼働できなかったそうである。
修理に1年もかかったのは、ずいぶんのんびりではないかという気もするが、そのころは急いで探査する対象がなかったのかもしれない。
それにしても、新造から1年も経たないうちに、量産品ではないはずの部品に故障が起きて使えなくなるというのはなさけない。
造ったのは、わが国の造船業界を代表する大会社である。
造船不況という熟語ができてしまった状況はあっても、2003年から5年ほどは好況が続いていたという。
好況の終期に出来上がったとすると、不況が生産意欲を沈滞させたことが粗悪品出来の原因ではなく、その逆のようにも考えられる。
生産現場に元気がなかったのではなく、浮かれ過ぎ、乗り過ぎの絶頂で、足元がよく見えていなかったのかもしれない。
だいじなのはこれからである。
アベノミクスが救いの神などと、浮かれて実業がおろそかにならないよう、締まらなければならないときには気を引き締めてかかってほしい。
まず、仕事を楽しくやるのが前提などと甘い考えは持たないことだ。