・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

大人の覚え方と子供の覚え方

2013年08月16日 | つぶやきの壺焼

カーナビ頼りのタクシーに乗って酷いめにあったことが、何年か前にあった。
パニクった運転手に、会社に電話しなさいと言って、ようやく道を探し当て、目的地に30分遅れで着いた。
あれからだいぶ精度は上がっていると思うが、どうなのだろう。

小学1年生のとき、友達の家に招かれて行ったが、一度案内されたら二度目からは案内も出迎えも不要、それなのに町名も番地も教えられた記憶はない。
どういう具合に覚えたのか、今ではとても解明はできない。

ちかごろは、待ち合わせ場所を間違えたり、行き先の施設名が不確かで似た名前の別のところへ行ってしまったり、Google地図も役立たないことがしばしばある。

子供のときの道覚えと、大人のそれとは、頭の働きが全く違うようだ。
子供のときは、メモリに空き領域がたくさんあって、自分の位置情報も一瞬で記憶できるのか。
大人は、伝言、場所の呼び名、地図上の位置、理解記憶などという、そこに行き着くことには直接関係のない、ノイズ満載の情報をしこたま取り入れて、不確かな制御方法で扱うから、違った、困った、ということになりやすいのだろう。

自分の頭を使わずに、何かに頼る度合いが、年齢を重ねるごとに増していく。
そのことが、間違いの要因の最右翼にあるのだと思う。

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きのこの季節が近づいた

2013年08月15日 | つぶやきの壺焼

綺麗なきのこは危ないそうだが、綺麗を通り越してぎょっとするようなのには近づかないほうがよさそう。
 http://p.tl/If8O

かえん太鼓は掘出し物になるかもしれないが、カエンタケは少し食べただけでも髪が抜け死に至るそうで、致死量はたったの3グラム。

触っただけでも、ただれてひどい目に遭うので、犬を連れているときは特にご注意を。

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デュアルからペンタへ

2013年08月13日 | つぶやきの壺焼

何かを考えたらもうひとつ。
最初のことにとらわれない。
目の前に今あることだけにとらわれない。

反対のこと、併行できること、いやもっとある。

反 頻 分 併 飜


無精者の特徴は、違うことへの関心の価値を認めないこと。
せいぜい反対か反抗してみるしか思いつかないこと。
それでは無関心とたいして変わりはないのに。

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覚えてもらえる商品名

2013年08月12日 | つぶやきの壺焼

商品名も地口に使われるようになると覚えてもらいやすい。
地口は、一過性でも頭の片隅に残る。
声には出なくても、ふとつぶやいてみたくなる。

「あたり前田のクラッカー」というのがあった。
変転の激しいこの世に、まだあるだろうかと調べるのも、近頃ではたやすくなった。

検索してみると、あるだろうかどころか、新商品も開発して意気軒昂。
「プルニエ」という名を見て、せんべいならわかるが、クラッカーになぜ魚を、と思う。
生臭くないのかというのが第一感。

ことによると、あたり前でないものを作ってみようと、誰かが言い出したのかもしれない。
菓子の売り場で「プルニエ」を思い出す地口をこしらえておかないと忘れそう。

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差の価値はどこにあるのか

2013年08月11日 | つぶやきの壺焼

段差、格差、差別、とかく嫌われがちな「差」ですが、厭われるのははっきり見えないからで、正体がはっきりして生活に溶け込んでいれば、さほど気にならないものです。

段差も、足元をしっかり見て、そこにあることがわかってしまえば、つまづいたり驚いたりすることはありません。

差がなければ生まれないものもあります。
位置のエネルギーです。

むかしは、澤地や埋立地に櫓が立てられ「よいとまけ」が始まると、そこに家が建つのがわかりました。
学校帰りに見て帰った日だったか翌日だったか、叔父から「よいとまけは見るな」と言われました。
見ていたことがどうして叔父に知れたのか、それが不思議でした。
どうしてわかったのかなどと聞くものではないと思っていましたので、確かめることはしませんでしたが、見ているところをだれかに見られていたのか、あるいは「おやじのためならエーンヤコーラ」というあの歌が口から出ていたのでしょうか。
なぜ見ては悪いのかも、道草がよくないという理由に置き換えられて、わからずじまいでした。

「よいとまけ」は位置の象徴のようなものでした。
位置のエネルギーを利用する装置を、低位置の生活をしている人々が集まって動かします。
人々が綱を引くエネルギーの集積されたモンケンが落下するところに、そこに建つ家に、少々の地震では傾くことのない地固めの位置が定まります。


差の価値は、広げること、大きくすること、保つことにはなく、活用するところにあるようです。
差の生かし方使い方に目を向けてみましょう。

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半世紀超えたら輝く世代

2013年08月10日 | つぶやきの壺焼

GS世代白書という本が出たと聞く。

GSとは、golden sixtys 「黄金の60代」のことである。
いわゆる「団塊の世代」を中心とした60代、人数が多いだけでなく「ゴールデンな人たち」である。
日本人の個人総金融資産1500兆円のうち520兆円をこの世代の人が持っているといわれる。
期待されているのは財布だというが、もっと別のものに期待すれば、ただあちこち歩き回るだけで、そうでないときは何をしてよいかわからないなどということもなくなっていくと思うのだがどうだろうか。

消費への期待と、せめてその半分ぐらいは生産への期待で、ゴールデンに磨きがかかるように。
いうまでもないが、生産はモノが対象とは限らない。

GSも10年後にはPS platinum seventys 、20年後にはDE diamond eightys になる。
そのあとは。

灰とダイヤモンドなどという映画を思い出すのはやめておこう。

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今世紀型の国際力

2013年08月09日 | つぶやきの壺焼

国際競争力という、煽動用語がある。
共同体という意識を振りはらってでも、国際という名の競技場でとにかく数字に表れる成績を出そうと、むきにならせるための掛け声である。
スポーツ選手がマイクを向けられてよく口走る「結果を出したい」という、あのセイシン表現に似たところがある。

競争の手段には、人倫も善悪も良俗も別次元のこととされる。
人々は活力を求めて走り回る。
競争の結果得たものは、いっそうの競争力増強に向けて注がれる。
税という名で利益の何割かを収奪されて、それが一大臣の迂闊な発言による何兆円もの損害の穴埋めに使われようと、それもまた別次元、そ知らぬ顔である。

そもそも国際競争力はなぜ必要になったのか。
それは、競争しなければならない立場にのめりこんだから必要になったので、よほど頭の悪い国でなければかならず行っている「保護」というたがを緩めすぎたことにも、ズッコケの要因はありそうだ。

国際的な力は当然必要ではあるが、人間が互いにもうすこし頭を冷やして、国際競争力よりも国際協調力に意識を傾けるようになれば、競争力増強のため、自国民に見せるいがみ合いの演技など、いかにも古臭いものに見えてくるのではないだろうか。

競争はしてないが、いつも先頭に立って歩こうとするだけでよい。
国際活力は他を蹴落とす力ではなく牽引力であってほしいものである。

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ペットフードは食品ではない

2013年08月08日 | つぶやきの壺焼

「愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律」という法律があります。
ペットフードの安全性確保、ペットの健康被害防止が目的です。

ときどきペットフードを人間が食べてしまうという、冗談交じりの話がテレビで放送されることもありますが、こういうことについて法規制はどうなっているのでしょうか。

食品衛生法には、普通の食べ物ではなかったものが、人の健康を損なうおそれがないという確証なしに売られて、それが食品衛生上の危害の発生を防止するため必要があると認めるときには、食品として販売することを禁止することができる、というまことにややこしい読んでいるうちに目まいのしてきそうな規定があります。
しかし、ペットの健康被害がなければペットフードとして売られることは禁止できません。

ペットフードを食べておなかがおかしくなれば、そのあとまた食べることはしないでしょう。
問題は、おなかがおかしくならないときです。
もし遺伝子組み換えで作られたペットフードを、見分けがつかずに食べてしまっても気付きようがありません。
  http://p.tl/5PU9

自由貿易を旗印に、こわいペットフードがどかどかと輸入され、人間が食べてもおいしいなどと、こっそり評判をたてられたとき、手のかからないことを最優先に考えるお母さんたちはどうするでしょうか。

よほど鋭敏なペットがそれを感じ取っても、自分の餌を奪われたぐらいにしか思わず、ただ首をかしげて人間のすることを黙って見つめているでしょう。

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子供はなぜ赤ちゃん言葉を喋るのか

2013年08月07日 | つぶやきの壺焼

大きくなっても赤ちゃん言葉の抜けない人がいます。
バカにされることがわかったときから、本人の苦労が始まります。

言葉は聞いて覚えます。
言葉を覚えるときに、赤ちゃん言葉しか聞かせなければそれしか覚えません。

大人がそれを教えるから覚えこんでしまう、そういう簡単なことほど、後にならなければ気付きにくいものです。
自分のしてあげたことに気付かないで終わる人もいます。

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戻ってくる齢があった

2013年08月05日 | つぶやきの壺焼

寄る年波はあっても引く年波はない。
年齢は戻らない齢である。

今度生まれたときはなどと言ってみても、ほとんど実感は伴わない。
齢も昔も、決して戻っては来ない。

この世にただ一つ、戻る齢があった。
月齢である。

月齢は、月の満ち欠けを暦にのせて知るための目安に、月と太陽が同じ方向に来た瞬間の朔(さく)からの経過を日数単位で表したもので、日ごとに名がついている。

1:朔(さく)/新月(しんげつ)
2:既朔(きさく)
3:三日月(みかづき)
7/8:上弦(じょうげん)
13:十三夜(じゅうさんや)
14:小望月(こもちづき)/幾望(きぼう)
15:望(ぼう)/満月(まんげつ)/望月(もちづき)
16:十六夜(いざよい)/既望(きぼう)
17:立待月(たちまちづき)
18:居待月(いまちづき)
19:寝待月(ねまちづき)/臥待月(ふしまちづき)
20:更待月(ふけまちづき)
22/23:下弦(かげん)
29/30:晦(つごもり)

これは、月の満ち欠け(月相)と連動するが、必ず一致するわけではないそうである。
月の軌道が楕円であるため、満ち欠けの速度が一定にはならないからである。
望(満月)の瞬間の月齢は13.8から15.8の間で変動するという。

数え方の出発点は0ではないかと思いはじめると話が面倒になる。
ところどころ2日にまたがっていることもあって、細かいことを言わないのが好ましい。
1から30までにべったり名がつけられてなく、ときどき見え隠れするものも、雲に隠れる様子を映しているようで面白い。

ひとことひとことに難癖をつけたがるくせにいい加減な人間の多いこの世に、月だけは鷹揚で、しかも周期を違えない。
月が鏡であったなら、という昔の歌を思い出す。

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音楽は聞くだけのものではない

2013年08月04日 | つぶやきの壺焼

ものごころがついてからの音楽とのかかわりは、レコードだったような気がする。
それは「かける」音楽だった。

聞くことよりも、サウンドボックスの小穴にねじ止めした針の先の震えが、音になって出てくるのが楽しみだった。
もちろんこれはあとから理屈で、わかっていたのは、鉄の針と竹の針では音が違うことしかなかった。
音の説明を文字で書いても、食べ物の味と同じで伝わる道理はなく、鉄の音と竹の音としか、いまでは言いようがない。

ともかく、音楽を聞くより音を鳴らすことに興味があった。
鳴らせばよいので毎日1回ずつ聞く。
1回ずつというのは、レコード盤が傷むから続けてかけてはいけないと言われていたからである。
うるさいからという理由は、そのときには気付かなかった。

それでも、ヴァイオリン曲、筝曲、長唄といろいろ聞いて、メロディとリズムは頭にしみこんだ。
ただ、交響曲のレコードはなかった。
ずっと続けて聞けない、1曲終わるまでに何度も盤を換えなければならない面倒よりも、レコード供給者の叔父の懐の都合だったのだろう。

音楽には、「貯める」そして「持ち歩く」楽しみもあるようで、CDからパソコンへ曲を貯め、それをまたCDに焼きなおして持って歩くのを楽しみにしている人もいる。
データが行ったり来たりするうちに、どんどん音が崩れていくことは意に介していない。

近頃は、音楽と騒音の区別も怪しくなってきているから、音質などは気にしないのかもしれない。
音楽から何かを「感じる」のも、曲全体からではなく、曲のどこかの部分の瞬時の響きとその変化から揺さぶられる感情を楽しんでいるのだろう。
だから、音はバカでかく、超広帯域で、純雑は無関係、変化もデタラメなほどよいということになる。

音楽とは聞くものではなく、音を鳴らし鳴らされて楽しむ、そんなものになってしまったらしい。

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食を極めて虫に至る

2013年08月03日 | つぶやきの壺焼

虫は食ったり食われたり、人間とは親密でなくても広いかかわりをもっています。

野菜は虫が食うぐらいのほうが旨いとも言われます。

おなかに虫を飼っているとかえって健康によいという説もあります。
「笑うカイチュウ」 藤田紘一郎 (著) がそれです。
http://p.tl/JOkv

驚いたことに、世界で食用にされる昆虫は 1,400種にものぼるといわれます。
http://p.tl/7wsv
http://p.tl/EvX5

虫を実際に食べてみせる、進取の気性に富んだ人もいます。
食の探検もついに虫の世界にまで手を伸ばしたかと感心はしても、実験には心が動きません。

食中毒と食虫毒がすぐお隣さんのように思えるからです、キモ。

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新聞記事の見つけ方

2013年08月02日 | つぶやきの壺焼

ヒデタケ流新聞記事の見つけ方というのがあります。

将棋の記事を切り抜いて裏をひょっと見て、イギリスで床屋がはやりだした話を見つける、こんな方法です。

この一見簡単な方法にも、なくてはならないものがあります。
1.紙に印刷された新聞を読むこと。
2.切抜きをすること。
3.必ず裏面を見ること。

なーんだと思う人は、この三か条の裏面を読めず、多分この真似ができない人です。

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