国際競争力という、煽動用語がある。
共同体という意識を振りはらってでも、国際という名の競技場でとにかく数字に表れる成績を出そうと、むきにならせるための掛け声である。
スポーツ選手がマイクを向けられてよく口走る「結果を出したい」という、あのセイシン表現に似たところがある。
競争の手段には、人倫も善悪も良俗も別次元のこととされる。
人々は活力を求めて走り回る。
競争の結果得たものは、いっそうの競争力増強に向けて注がれる。
税という名で利益の何割かを収奪されて、それが一大臣の迂闊な発言による何兆円もの損害の穴埋めに使われようと、それもまた別次元、そ知らぬ顔である。
そもそも国際競争力はなぜ必要になったのか。
それは、競争しなければならない立場にのめりこんだから必要になったので、よほど頭の悪い国でなければかならず行っている「保護」というたがを緩めすぎたことにも、ズッコケの要因はありそうだ。
国際的な力は当然必要ではあるが、人間が互いにもうすこし頭を冷やして、国際競争力よりも国際協調力に意識を傾けるようになれば、競争力増強のため、自国民に見せるいがみ合いの演技など、いかにも古臭いものに見えてくるのではないだろうか。
競争はしてないが、いつも先頭に立って歩こうとするだけでよい。
国際活力は他を蹴落とす力ではなく牽引力であってほしいものである。