ものごころがついてからの音楽とのかかわりは、レコードだったような気がする。
それは「かける」音楽だった。
聞くことよりも、サウンドボックスの小穴にねじ止めした針の先の震えが、音になって出てくるのが楽しみだった。
もちろんこれはあとから理屈で、わかっていたのは、鉄の針と竹の針では音が違うことしかなかった。
音の説明を文字で書いても、食べ物の味と同じで伝わる道理はなく、鉄の音と竹の音としか、いまでは言いようがない。
ともかく、音楽を聞くより音を鳴らすことに興味があった。
鳴らせばよいので毎日1回ずつ聞く。
1回ずつというのは、レコード盤が傷むから続けてかけてはいけないと言われていたからである。
うるさいからという理由は、そのときには気付かなかった。
それでも、ヴァイオリン曲、筝曲、長唄といろいろ聞いて、メロディとリズムは頭にしみこんだ。
ただ、交響曲のレコードはなかった。
ずっと続けて聞けない、1曲終わるまでに何度も盤を換えなければならない面倒よりも、レコード供給者の叔父の懐の都合だったのだろう。
音楽には、「貯める」そして「持ち歩く」楽しみもあるようで、CDからパソコンへ曲を貯め、それをまたCDに焼きなおして持って歩くのを楽しみにしている人もいる。
データが行ったり来たりするうちに、どんどん音が崩れていくことは意に介していない。
近頃は、音楽と騒音の区別も怪しくなってきているから、音質などは気にしないのかもしれない。
音楽から何かを「感じる」のも、曲全体からではなく、曲のどこかの部分の瞬時の響きとその変化から揺さぶられる感情を楽しんでいるのだろう。
だから、音はバカでかく、超広帯域で、純雑は無関係、変化もデタラメなほどよいということになる。
音楽とは聞くものではなく、音を鳴らし鳴らされて楽しむ、そんなものになってしまったらしい。