Hさんのfacebook報によると、カツオノエボシという怖い生きものが海岸に現れているそうです。
かながわ海岸美化財団 茅ヶ崎情報
⇒ http://jump.cx/bika
8月に入ったら、電気クラゲに気をつけろと、昔から言われていたのを思い出しました。
刺されると命にかかわることもあるので、決して触ってはいけません。
Hさんのfacebook報によると、カツオノエボシという怖い生きものが海岸に現れているそうです。
かながわ海岸美化財団 茅ヶ崎情報
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8月に入ったら、電気クラゲに気をつけろと、昔から言われていたのを思い出しました。
刺されると命にかかわることもあるので、決して触ってはいけません。
河原キャンプの心得に「中州も川底」というのがあります。
見つけたときには岸からすぐ渡れて、ちょうどよい広さの中州であっても、前日の雨は上流に貯まっていて、いつ一度にやってくるかわかりません。
急に降り出した大雨は、翌日までは待たずに流れます。
降った雨はそのまま消えるのではなく、近くの川に集まって流れるという、ワイルドな人たちでも知っていそうな基本原理を、ブンメー人は頭に入れていません。
雨が降っても、みな下水溝に流れ込み、すぐに目の前から消えてしまうものと思っています。
集中豪雨で、下水溝に呑み切れなかった水が溜まると、大事件のようなTVニュースになり、水の扱いにどれほどブンメーが無頓着であるかということの証になります。
ほかの星に目は向いても、足元にすぐ溜まる水には、ソーテーガイという言葉を考え出す知恵しか持ちません。
反対側からよく見て確かめておかなかった、中州に渡った経路は、水が増えればどこかわからなくなります。
膝までのつもり、タイヤが半分浸かるだけのつもりが、河原からむやみに砂利をこそぎ採った大穴で、とんでもない深さになっているところがあるのにも、気づくことはありません。
そんな大穴を作ってそのまま帰ってしまう人にとって、川底である中州にやってくる人たちが、そこで遊び呆けることはソーテーガイなのです。
「信号機のない環状交差点をぐるりと回る…。そんな欧米発の自動車道路が日本で増えるかもしれません」
という記事がありました。
⇒ http://news.asahi.com/c/agdjdgaykBg9fEa2
この書き出しを見て何を思うかは、人それぞれ、目の付けどころによります。
どの言葉に心を引っ張られるか、それが違うとも言えます。
私の場合は、甲府の駅前に昔あったロータリー、「ぐるりと回る」場所の印象です。
大人が走ったのでは邪魔になりますが、就学前の子どもがグルグル走りまわるには、大きさも環状歩道の広さも、ちょうど具合よくできていました。
夕涼みの家族には頃合いの距離のところでした。
爺さんが作ってくれた、直径が顔の何倍もある風ぐるまを持って走っていると、「それ、どこで売ってるの」と尋ねられることもありました。
「売ってないよ」と、子どもの返事はそっけなくて済むのでした。
この環状交差点の形は、ラウンドアバウトと名づけられています。
夜更けには、マイルスの奏でるあの曲が流れるとよさそうです。
事故防止や渋滞緩和の効果などという、しちめんどくさいことは、通り抜ける人には関心がありません。
鬼ごっこをしたことがない子は不幸です。
鬼を知らないと、何かあればすぐ法律や裁きに頼ることになります。
ホーチ国家人の典型です。
法治、報知、放置、呆痴、意味は少しずつ違いながら、低知能指数、応用がきかないというところでつながっています。
ごっこを知らないと、祭事の効力を感知できない、真っ正直に見えながらの無感覚な人間になってしまいます。
何よりも、鬼ごっこは、虫追いと同様、健康のもとになります。
夏休みには、小さい子は大人のリゾートにつき合わせず、鬼ごっこや虫追いをさせておきましょう。
どこかの国で急に難民が出たら、それがいつ押し寄せてくるか、津波と一緒で、何十年に一度などというご都合計算は役に立ちません。
こういう限度不定の事象襲来への対策は、とにかく早くたてておかなければなりません。
津波にはとにかく高いところへ逃げることですが、難民の場合は逃げればたちまち占領されてしまいます。
押し寄せる人にも蔭のリーダーがいて、ジンドー印の旗を振りかざしてきますから、滅多な対応はできません。
ホームステイや旅人相手と違い、仏ごころなど通じない相手には、組織的な対処を考えておき、それができる人をあらかじめ養成しておくことが必要です。
組織のこちら側のリーダーには、難民保護司のような訓練を受けた人が必要です。
保護士ではなく、一定の権限を持った保護司です。
余談に走りますが、「一定の」というつかみどころのない奇妙な熟語の用途を、ようやく会得した感じがします。
難民は虐待してはならず、保護しなければなりません。
言葉の通じない、何をし出すかわからない集団であってないような人たちの保護は、「上手に」行わなければなりません。
永田町では、この研究は進んでいるのでしょうか。
どこにやらせればよいという程度の丸投げ球を放り出されたのでは、キャッチャーが現れずに球は大きくなりながら、霞ヶ関を素通りして市中を転がり回ります。
市民は、法文の読み方などよりも、実際に起こりうる事案に、英知の結集を期待するしかありません。
起きなければ事案ではないなどという、言葉遊びはお断りです。
点取りの訓練より、点取られの訓練に力を入れたらどうでしょう。
点を取られたとき、どう対処するか、どのようにして取り返すか、という訓練です。
浮足立たない、へこまない、その場を踏み台にして盛り上がる、これは個人技でできることではありません。
点取りよりも、点取られのほうが、はるかに厳しい試練になり、社会に出てから大いに役立つ体験になります。
鳶の声がうるさく聞こえるときがあります。
車の音と同時にやってくると、そうなります。
車の音にかき消されるほどでもなく、両方同時に同じ音量に感じるとき、歌声も話し声もみな雑音になってしまいます。
この音を聞いてみろとばかりの、狂音バイクのほうが、何秒かの我慢ですむだけ、まだましです。
普通の車に乗っている人は、出す音でだれかを困らせてやろうとは思っていません。
会議中に続けられる勝手なおしゃべりも同じです。
邪魔をする気でない音や声が、なぜうるさく聞こえるのでしょう。
出すほうが気づいていない、ただそれだけのことです。
時を逆回しにしてみて楽しむ人がいます。
してみて楽しむより、させて見せて楽しむと言ったほうがよいかもしれません。
昔言葉の好きな人がいます。
古い書物を読み解くのでは飽き足らず、今の書物をわざわざ昔言葉に書き換えようとする人もいます。
これも時の逆回しなのですが、この書き換えも自分ではせずに、させて楽しむ人がいます。
よくある古典の現代訳の逆で、現代文の古語訳です。
こんな本を買う人はいませんから、本にはしません。
必要だから考えるのではなく、考えてから必要としてくれる相手を探す、時の逆回しです。
古典と古語は、感覚と様式が古さで結びついているところに、奥深さ、面白味あるので、言葉を入れ替えてしまえば、それは少なくとも半減するでしょう。
古典の現代訳は、読み手が現代にいる人ですから、言葉と人の感性は一致します。
しかし、現代文の古語訳は、現代のことを昔言葉に置き換えて、それを現代にいる人に昔の感性で読ませようという、矛盾を重ね合わせるあほげたことのように思います。
こういうものには、不幸なことに、必要を装う人が出てきてしまいます。
現代文の古語訳は、入試問題や国語検定問題には使えてしまうのです。
試験というものは、形式がその本質で、採点が成立しやすければよい問題ということになり、要求と提供が一致します。
現代語を古語に換える辞典はないかという人がいて、そんなものはまさかないだろうと思っていたら、それがあったのです。
「現代語から古語を引く辞典」名づけて「現古辞典」、それが著名の出版社から出ているのでした。
時を逆回しにしてみて楽しむ人が、案外多いのかと、何やら背筋が涼しくなってきました。
そう呼び始めはしたが、もともと考えて作ったのではない「時」
神のなさることは、時に叶い、時には厳しいこともある。
人が時を無視する時、あるいは獣になる。
獣になる人が増えてくれば、神は時に応じて罰を下す。
その時は、神の時であり、時は神になっている。
時はそれだけではカネにはならないが、神にはなる。
ところが、時を過ごすだけでカネになる不思議なところもある。
カネを扱う総元締めの組織は、それに近いと言う人もいる。
このことは、神のお告げではない。
「正しいですか」とすぐたずねる人は、ものごとのありようを正したい、あるいは知りたいのではなく、正誤正邪をとにかく決めたいという気持ちが強いのでしょう。
白黒をはっきりさせたい、ただし自分は白でいたい、勝敗を明らかにしたい、ただし自分は勝者でありたい、勝つまでは頑張る、いつも勝って終わりたいという、ゲーム感覚の強い人がそうなるような気がします。
知らない間にゲーム病に罹っていると、その症状が、持病のように、何かの刺激を受けてすぐに顕れるのでしょうか。
あるいは、お引きずりのように、厄介だけれども見せたいという、ややこしい感情に、実は悩まされているのかもしれません。
お引きずりが、外に出ればまことに面倒な非生活様式であっても、できるだけその姿で長くいたい、ゲームが、時間つぶし以外に何の意味もなくても、できるだけ続けていたいのです。
なにしろ「正しい」時間の使いかたがわからないものですから。
FAQサイトによく現れる愚問型の一つに「正しいですか」というのがあります。
自分ではその判断をしたくないので、FAQにおまかせするという、現代研究様式のもっとも情けないかたちです。
そういう質問をする人は、多分ある種の病に罹っているのでしょう。
病名は、裁定依存症、病の貴賎をあえて唱えれば、サイテイ症、読み方もすっぽりはまります。
一茶の蠅の句で、手を「すり」なのか、「する」なのか、こういうことも、いまはその気になればものの5分もかからずに確かめることができます。
「一茶の俳句データベース詳細表示」というサイトがあって教えてもらえました。
⇒ http://jump.cx/issa
元の句は、
やれ打な蠅が手をすり足をする
でした。
手を「すり」で、「する」ではなかったのです。
俗世の暗誦では、「する」「する」と重なったほうが言いやすい、それだけのことだったのでしょう。
「すり」「する」でも「する」「する」でも、句から詠みとれる情景は変わりません。
「打つ」も仮名で送らずに「打」でした。
もう一つ「蠅が」を「蠅は」としてある文献もあるようです。
正確を期せば誤った読み方書き方でも、けっこう大手を振ってゆきわたっている、日本語の鷹揚さがこの蠅の句からにじみ出ているようにも思います。
蠅が揉み手をしながら言っています。
「まあ、そう細かいことを気にして、やかましいことを言いなさんな」
ある句を知っているかどうかが、世代の境目にならないかと、ふと思いました。
Wikipediaには、世代の「さまざまな人が世代を命名し多くの世代が存在する」という説明もあって、命名されないと世代ではないような錯覚も起きそうですが、そうでもないでしょう。
「ほぼ同時期に出生した一群の個体」という定義を借りれば、あることを知っている世代と知らない世代には、境目があるとしてもよさそうです。
やれうつな 蠅が手をする 足をする
という一茶の句があります。
文字を確かめておこうと、「やれうつな」で検索したら、蠅が手を「する」というのと「すり」という、ふたとおりの句が出てきました。
面倒なスレ話ですが、「蠅」が漢字なら「打つ」とここも漢字だろうとは思います。
標題に、はじめの五文字だけを使うには全部かなのほうがよさそうで、それを引きずってかな書きしておいたので、こちらは素直に「打つ」に戻せるのですが、「する」と「すり」はするりとはいきません。
Google には「関連するキーワード」というのが下のほうに出てくるので、そこで「やれ打つな蠅が手をする足をする」を呼び出してみたら、「もしかして: やれ打つな蠅が手をすり足をする」と第1行に現れました。
そうなると、どうやら「すり」のほうに分がありそうですが、小学校の国語の教科書には「する」と載っていたような気がするのです。
「する」~「する」のほうが覚えやすいので、間違って覚えたかもしれませんが、国語読本は手元にもうないので図書館にでも行かなければ、すぐにはわかりません。
まあ、本題は「やれうつな」のほうなので、「する」と「すり」は別のお座敷ということにしておきましょう。
「やれうつな」を持ち出したのは、最近日本海にミサイルが頻繁にぶち込まれるようになったからなのです。
ミサイルをなぜボカボカとうつのでしょう。
航路を定められない漁船に、ぶち当たらないという保証のない危険を冒してまで、ムダダマをなぜうたなければならないのでしょうか。
捨てないと置き場には困るでしょう、空間があるだけでは置き場にはなりません。
作りすぎた爆弾の保管装置の収容力不足を補うために、日本海は壮大なゴミ処分場になってしまう、そんなことでよいのでしょうか。
自由の実感は、何でも思いどおりになるときには得られません。
得られなければ自由を知ることができません。
自由の感覚をなかなか味わうことのできない、願望即叶の恵まれた人は、自由が欲しくなると、それを得るための道具立てを考えます。
いわゆるハードルです。
障碍を越える瞬間の思いこそが自由の実感ですから、越えたり、倒したり、消し去ったりするものがなければ、自由は得られません。
世の中に、次から次へと現れる差し障りは、自由を得るために必要なものらしいのです。
差し障りには、いろいろな作り方があります。
そねみ団子やいじわるムースに仕立てて、ご近所に配るという、自分の楽しみを見つけられない、おつむのあまりよくない奥様向きの方法もあります。
昨日載せた写真は、駅前の空き地を通り抜ける直線経路に並んだために、ほんのちょっと回り道をさせられるのが気に入らなかった人に蹴倒された、ひまわりのプランターです。
蹴倒した人は、その瞬間、たぶん自由を味わえたでしょう。
しかし、帰り道にはどうだったでしょうか。
自由気ままは、得てしまえば、どこか後味のよくないことでもあるようです。
駅前にプランターがずらっと並びました。
花の小さなヒマワリです。
まっぴるま、花はどちらを向くのだろうと見に行きました。
こういうときは、暑さも気になりません。
花の列の中には、蹴倒されてもなお上を向こうと頑張っているものあります。
花は、暑いとも、痛いとも言いません。
いま気温は何度、誰それに蹴られたとも言いません。