お大師様はいつも見ておられるぞよ。
見えないところでこそ努力をせにゃならん。
どないな意味でっしゃろ?
例えばやな。
地道な努力が世間に知れると。恥ずかしいがな。
やってなさそうで案外やるやないか。
ちゅうのが、かっこええんや。
見えへんところでの努力や。
せやけど。隠れてこそこそしたらあかん。
見られてる世間もある思うたら、妙なことはせんやろ。
そう思わんと世間が狭うなりまっせ。ちゅうこっちゃ。
なるほど。壁に耳有。障子に目有。
せや。見えんところでする努力が見えたら捕まる人もおるわな。
詐欺や横領や虐めやらの犯罪をしてしまう人はやね。
人の目さえ盗めたらいってまう人達や。
やっぱりあれですわ。世間をなめてますわな。
せや。世間ちゅうのは、己の世界観。つまり心の問題や。
見えへんでも世間は見とる。と思わなあかん。
おのれの了見だけで身勝手になめたらあかんのや。
せやからな。心の箍が割合簡単に緩んだり外れたりしよるんや。
地道な努力も、隠れてする悪さも。基本は同じでもや。
心に箍があるとないでは大違いちゅうことでっしゃろな。
あんたはん。今日は何時に無くご立腹でっか?
せや。小耳にはさむことがな。どうも姑息で無責任な輩(やから)の話が多いんちゃうか思うてな。
恥ずかしい話やで。そらま。我が振りもなおさなあかんけどや。
躾の問題なんでっしゃろか?
ええ歳こいてやな。躾でもおまへんやろけど、なんや緩んでるのちゃいまっか?
ふんどしでっか?
あほ。
・・・・・。
写真は弘法大師空海さん。
空海さんのみならず、世に聖人は数多い。
人はその歴史上多くの信仰の対象を生み出してきた。
小生は想う。
信仰とは、心の箍を維持するのに貴重な大目付なのではと。
つまり。
緩み外れそうな自己を躾、律しようとするならば。
世間を構成している見えない律儀さ。というようなものを信仰する必要がある。
その精神性の維持に、空海さんを始め神仏の果たしている役割は大きい。
と。斯様(かよう)に思うのであります。火曜に。
・・・。