情報理論の第一の法則によれば、あらゆる中継器が、雑音を倍増し、メッセージを半減させるという。
機械に限らず、人を介して発せられるメッセージも、数人を経れば、もはや原型は留めない。
雑音の中から如何に純度の高いメッセージ性を抜き取るかは、かなりの高度な技量と性能を要する。
しかし困ったことに、高度情報化社会というものは、シンプルで雑音の少ない純正のメッセージではインパクトが低くなるという傾向もあるように思える。
ストレートに伝えれば伝えるほど、いぶかしきものと受け取られることも多々ある。
かえって雑音の方に価値基準が移ってしまうことも。
単純な疑問に答えられるものがメッセージの本質でありながら、雑音によって全く逆の様相を呈し、それを受け入れてしまうのである。
真の逆は誤、良の逆は不良、である可能性は高くなる。
こういった心理を悪用するのが、いわゆるまやかし専門の知能犯でもある。
嘘である。というメッセージは、雑音を並べ立てることで半減×半減させれば、本当である。に限りなく近い情報としての羊頭となる。
メッセージそのものは、清濁良悪適不適、世に満ち満ちている。自己責任においてその選択は当人に委ねられているものでもある。
処世術のひとつとして、雑音に惑わされず、メッセージの本質を賢明に抜き取れるかどうかの力量は大事だろう。
自分の頭で理解できないようなことに、メッセージ性は存在しないと肝に銘ずる必要がある。
いわれの無い儲け話や、つもりの無い献身や、寄る所の無い自信、その場しのぎのまやかしなどは、単純思考のフィルターを通すことで、かなり取り除けるものでもあるように思える。
昭和20年。レコードとラジオという中継器を通じた、雑音だらけの玉音放送はしかし、敗戦という強烈なメッセージを国民に伝えた。
その多くは話の内容ではなく、現人神(あらひとがみ)の声という、当時の庶民にとっては、信じがたいことを想起させるという、そのメッセージ性によるものだろう。
私は思う。
メッセージをしっかりと受け取ることは、決して難しいことではない。
雑音に耳を奪われないことなのだ。