南無煩悩大菩薩

今日是好日也

メッセージ。

2009-02-07 | 有屋無屋の遍路。

情報理論の第一の法則によれば、あらゆる中継器が、雑音を倍増し、メッセージを半減させるという。



機械に限らず、人を介して発せられるメッセージも、数人を経れば、もはや原型は留めない。

雑音の中から如何に純度の高いメッセージ性を抜き取るかは、かなりの高度な技量と性能を要する。

しかし困ったことに、高度情報化社会というものは、シンプルで雑音の少ない純正のメッセージではインパクトが低くなるという傾向もあるように思える。

ストレートに伝えれば伝えるほど、いぶかしきものと受け取られることも多々ある。

かえって雑音の方に価値基準が移ってしまうことも。

単純な疑問に答えられるものがメッセージの本質でありながら、雑音によって全く逆の様相を呈し、それを受け入れてしまうのである。

真の逆は誤、良の逆は不良、である可能性は高くなる。

こういった心理を悪用するのが、いわゆるまやかし専門の知能犯でもある。

嘘である。というメッセージは、雑音を並べ立てることで半減×半減させれば、本当である。に限りなく近い情報としての羊頭となる。

メッセージそのものは、清濁良悪適不適、世に満ち満ちている。自己責任においてその選択は当人に委ねられているものでもある。

処世術のひとつとして、雑音に惑わされず、メッセージの本質を賢明に抜き取れるかどうかの力量は大事だろう。

自分の頭で理解できないようなことに、メッセージ性は存在しないと肝に銘ずる必要がある。


いわれの無い儲け話や、つもりの無い献身や、寄る所の無い自信、その場しのぎのまやかしなどは、単純思考のフィルターを通すことで、かなり取り除けるものでもあるように思える。



昭和20年。レコードとラジオという中継器を通じた、雑音だらけの玉音放送はしかし、敗戦という強烈なメッセージを国民に伝えた。

その多くは話の内容ではなく、現人神(あらひとがみ)の声という、当時の庶民にとっては、信じがたいことを想起させるという、そのメッセージ性によるものだろう。


私は思う。

メッセージをしっかりと受け取ることは、決して難しいことではない。

雑音に耳を奪われないことなのだ。

コメント
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