ある男がいた。
その男は、蛙の鳴き声を聞きたいと思った。
庭に小さな池を掘り、おたまじゃくしを買ってきてそこに放した。
おたまじゃくしは手も足も生えてきて順調に育っていた。
ある日男は、ある出来事から、アヒルのひよこ達を買うはめになった。
その男はそのうち、ある事情からその場所を引っ越していった。
或る日、成長したヒヨコ達が小さな池で騒いでいた。
アヒルの水浴びで濁った水がやがて澄んでくると、そこにはもう、一匹のおたまじゃくしの姿もなかった。
・・・。
魯迅さんの短編に確かこのようなストーリーがあった。
私はふとそんな考えが浮かんだ。
椅子はあれども席は無し。
おたまじゃくしやひよこやあひるからみれば、その男は椅子は用意したけれども席は用意できなかった。
そのおたまじゃくしやひよこやあひるからみれば、その男は運や縁の創造者とも映る。
席を確保する。
こしかける ものでありながら、なにかを けしかける ものでもある。
蛙の鳴き声が、アヒルの鳴き声に変わっても、それが意図したことではないとは、誰も言い切れないだろう。