人はこの瞬間を肉眼において明確には捉えられない。
コンマ数秒、またたく間に消える実体。
時間を引き延ばしてみよう。
10年という歳月を単位とすれば、1時間にも満たない間の出来事。
私たちはまばたきをする。それはその瞬間の連続というある期間を一本の線の様に見てはいないと言うことを意味する。
厳格には、間の抜け落ちた、点線のようにしか見る事は出来ない、
カメラという機械の力によって切り取り抽出したこの瞬間を見て、「なんだかこのようである」と言う認識において、その状態を記憶に残す。
もし私たちがある事象を連続的にみて厳格に記憶する生き物であったなら、世界はきっと全く違ったもの、様相を呈し、私たちはこんなに鷹揚かつ長命ではないのかもしれない。
ゆ~くりと、僕はまばたきをしてみる。
10年の一年、一年の一日、一日の中の一時間・・・。
僕は何を見、何に目を瞑ったか。
何をどのように記憶し、何をどのように無視してきたか。
次に僕は矢継ぎ早にまばたきをしてみる。
・・・・・。
チカチカしてきた。
だが、小さな瞬間がより鮮明に見えた気もする。
僕は何に集中してきたのか。
物理的なまばたきの試行に過ぎないのだが、物理的な行動や存在が、いままで僕に与えてきた影響はきっと大きい。
まばたくまに月日は過ぎる。とはよくいわれる。
またたくまというものの、僕の点線がどのような点形であり、実線をなぞってきたのか、その実像のようなものを受け入れる用意をそろそろしなければと、思うようになった。
しかし。よくよく考えてみると、僕は一体そのうちの何を知っていると言えるのかという疑問に突き当たるのである。