南無煩悩大菩薩

今日是好日也

老人の迫力と破壊力と切実な願いとめくるめく世界と

2019-06-16 | 古今北東西南の切抜
(photo/Kazuo Ohno)

街を歩いていたら、商店街のお祭りに出くわし、向こうから、おばちゃんの集団が現れた。みんなそろいの浴衣を着て、花笠を被り、ゆったりと踊り歩いてくる。5,60人はいらしたか。水前寺清子さんの群れかと見まごうほどの迫力である。

しかも曲は人気アイドルグループの「365日の紙飛行機」だ。この歌に特別関心を寄せたことは今まで一度もなかったが、胸が熱くなった。お年寄りが踊ると、えも言い難い説得力があるのだ。

「朝の空を見上げて 今日という一日が 笑顔でいられるように そっとお願いした 」という歌詞の冒頭からして、若い女性が歌うのとでは、見える景色が異なる。

仏壇の阿弥陀さまに、だろうか? それとも先立ったご主人にだろうか? いずれにせよ、切実な生への願いが感じられる。

過去にも一度、同じような体験をしたことがある。町内会の敬老演芸会を観ていたときのことだ。過疎の村の敬老会は、8,90代の老人会を、6,70代の婦人会が祝うという、めくるめく世界なのだが、公民館の壇上では、やはり揃いの浴衣で、輪になって五月みどりさんの「おひまなら来てね」に合わせて踊っている。それだけで結構破壊力のある絵だった。

「おひまなら来てよネ 私さびしいの」という艶っぽい歌詞が、「お迎えに来てよネ」に聞こえてくる。 「本当に1人よ 1人で待ってんの」に至っては、もう独居老人のテーマソング以外の何物でもない。

決して茶化して言うのではない。私はとても感動したのだ。「生の輝き」があふれていたし、なにより、単調な振り、婦人会の皆さんの真剣なまなざしには、霊界と交歓するような清廉さすら感じられた。

思えば、これが、「老いの身体の尊さ」を感じた最初かもしれない。日本の古典芸能は、「老いの身体を楽しむことだ」としばしば言われる。歌舞伎であれば、10代の娘役を80歳の女形が演じるということも珍しくない。はじめは面食らうかもしれないが、次第に、若い役者にはない色香と説得力があることがわかってくる。身体の自由は利かなくなってくるかわりに、熟練の技と、年月が積み重なっていく。

これは芸の世界に限らず、世の中、すべてのお年寄りにいえることだろう。年々頑固になったり、固定概念から抜け出せなくなるのも事実だが、それもいつか味わいに変わる。長年、風雪に耐えて、角が取れたり、磨かれたり、苔のむしたりした古石のように、尊い身体に変化していく。

「いままで生きてきた」という揺らぎようのない事実を纏った身体は、ただもうそれだけで、物語を孕み、感動的なのだ。

(切抜/木下祐一「老いの説得力」日経夕刊より)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする