南無煩悩大菩薩

今日是好日也

遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

仏法遥かにあらず 心中にして すなわち近し。

-般若心経秘鍵-


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遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

雲があれば 雲を観る。



はるばると くものほとりのてらにきて

つきひをいまは ふもとにぞみる。

-雲辺寺御詠歌-
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遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

同行二人。


わたしは、ひとり。

思いとともにあるく


ついぞ ありがたさに やわらぐあしのいたさよ。
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遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

海あれば 海を観る。

島影想えば 島影思う。
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遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

路あれば 路を登る。
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遍路。

2009-08-16 | 有屋無屋の遍路。

山あれば 山を観る。

-種田山頭火-


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旅情立つ。

2009-08-08 | 有屋無屋の遍路。

疑っていることがある。

私は、疑っている人に対し、自分は信頼に足りる寛大な人間となれるだろうかと。


本当に嬉しいこととは、お互いに信頼し信頼に応えあうことそのものに、喜びを見出すことだというのは、脳の神経生理学的にも実証されているという。

線条体という部位が、喜びと嬉しさと自らの尊厳にまつわることで、活発に活動し、喜び物質が造られるようだ。

その大きなファクターが、信頼し信頼される関係を認識した時だという。

そのためには、いったん自らの利得や尊厳を棚上げしたり、体面や矛盾に目をつぶるというような行動も含まれるらしい。

つまり、脳の活動的には、信頼関係の喜びを経験したものは、信頼作りへの渇望において、麻薬などの薬物と同様の影響を与えるということでもあろう。

常習性を与えるものを、外から取り込むと、不幸な中毒になるが、内から生み出せば、幸せになるということだ。


所詮浮世は一人旅。
ともいうが、自らを信頼する為には、他人との信頼関係の構築と言う体験がなければ、所詮成り立たないものでもある。



疑っていることがある。

私は、本当の信頼に足りる寛大な人間に今まで一度でもなったことがあるだろうかと。


私は旅に出る。

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往く川の。

2009-08-07 | 有屋無屋の遍路。

綺羅綺羅と 瞬き返す光川。

ほろほろと 零れおちるも 世俗垢。


入れて消化して出す。

いでて流れて帰す。


起こったことを貯めすぎず。
持っているものを固執に留めず。


往く川の 篤く静かに誘うも旅情。

捨てるともなく。拾うともなく。

ひとりその流容に没すを欲す。

往く川の。


斯くの如しか。

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進軍あるのみ。

2009-08-06 | 酔唄抄。

勝ってくるぞと勇ましく。

誓って呑みにいくが、いつも返り討ちにあうことが多い。

敗残の兵よろしく、うなだれかたをおとしうずくまり路面を見つめるとき。

今日も討ち死にの体にて気丈壊れ行く。

糞にちかしの、ころがりかた。

今自分が、生きておるのか死んでおるのかでさえ定かではない。


ふん。このよっぱらい。と傍らをお化けのような女性が通り過ぎる。

私はぶつぶつとつぶやく。

なにゆうてやがる。このぶす女。

よっぱらいはな。酔いが覚めたら元に戻るんやど。けどブスはもどらん。


ひとせ毒づいた後、しこたまやられた負け犬の糞は、ころころと家路につき、泥の如く眠りに落ちる。



惰性との戦争。

まだみぬ花園を探し、そのなかで眠るその日まで、気力の続く限り、挑み続けるのである。

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階段での話。

2009-08-05 | つれづれの風景。

暑いからちょこっと怖い話でもして、寒い思いしてもらいましょか。


このあたりは昔からつりに来る人が多い。首ですけどな。

この急な岩石で出来た階段は気つけんと、後ろから成仏しきれんやつに突き飛ばされるちゅう話ですわ。


ひとつ。ふたつ。みっつ。・・・と言う声がどこからともなく聞こえてくる。

そのあと聞かれたことに答えられんかったら、突き飛ばされるんですわ。



ひとつ。ふたつ。みっつ。

そのあとなんぼや?


お岩さんの、よっつやかいだん。

・・・。

さむ。

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瞠目と瞑目と。

2009-08-04 | つれづれの風景。

20年立てば、したことよりもしなかったことを嘆くようになる。
-マーク・トウェイン-


例えば、かなわぬものと知りつつも、恋の告白をして、振られるとする。
やっぱりしなければよかったと短い期間では行動を悔やむかもしれない。
しかし、それを諦めてしまったなら、長い年月を経ればきっとあなたは、しなかったことを悔やむようになるだろう。


この世では、思いはすれども、夢は語れども、実行力が伴わねば、何も誰も成し遂げることはできない。


後智恵。と言う言葉がある。

終わってしまったことにあれこれと理由をつけて、自分を納得させることだ。

偏見なく弁証できれば、智恵となるが、そうでなければ自分の可能性を自分で閉ざしてしまうバイヤスがかかる。

評論家を気取らず、私はそれでいいのか。と言う問に朴訥に行動を起こさない限り、何も変わらないのだ。


知己の方々が、鬼籍に入り、それを見送るたびに私は思う。

したことよりもしなかったことを嘆くようになる。ということが、其処にいたってはもうどうしようもないのだということを。


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とおりゃんせ。

2009-08-01 | つれづれの風景。

このこのななつのおいわいに お札を納めに参ります。


七年というのは、体の全細胞(脳以外)が新陳代謝で入れ替わりをする年月だという。

そういえば、人が一度に覚えられる数は、だいたい七つだといわれる。

大陸や海や生や、不思議もナナが多い。


男女七歳にして席を同じゅうせず。
と、男女の区別がつく年頃であったりもする。

七年目に浮気する人が多いかどうかは、私は知らない。

その昔のななつは、幼児期の致死率が大きく減る歳で、七つを数えたら、お礼参りをするのであったそうな。

喜びだけではなく、忍ぶのも同様で、回忌には、三と七がある。


今ここで、過ごせているありがたさよ。


振り返りつつ前を見つつも、我が身が何回まわるかは、天のみぞ知るではあるが。

いきはよいよいかえりはこわい。こわいながらもとおりゃんせとおりゃんせ。

やじろべえの童人形が、風に誘われまわっていた。

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