毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

それでも、日本人は「戦争」を選んだ  2011年2月20日(日)  No.68

2011-02-20 21:20:48 | 中国事情
 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著:朝日出版社)を読んでいる。
すごい本だ。引き込まれる。加藤陽子さんのような学者に出会うと、「学者」という仕事が大切に思える。
日本人として、読んで辛い本でもある。しかし、それを越えてとてもおもしろい!

 日中の近現代史上のあの事件、この戦争を当時の日本の為政者や普通の人がどうとらえていたのか、加藤さんが当時の当事者の手紙や書物などの資料を克明にたどり、実証すればするほど、日本人の一人としてトホホ感が溢れる。が、実証を通して史実を確認し、嘘じゃない歴史を語る爽やかさがこの本にはある。嘘じゃない歴史こそ、未来につなげるために必要なものだ。

この本は、中学生・高校生からなる「歴史クラブ」の生徒たちに講義する形をとって展開している。
彼女が生徒たちに投げかける質問の、なんと核心をついていること!そしてまた、受講している子どもたちがそれに対して食い下がるのなんの!!丁々発止とはこのことなり。(ああ、私もこの授業に参加したかったわい!)

 本のしょっぱなから「アメリカにとっての9・11と、日本にとっての日中戦争の類似性」という提示。それは見事な視点としか言いようがない。

 加藤さんは、2003年にアメリカがイラクに対して「問答無用、成敗してくれる」と強権露わに侵略していった、あの記憶に新しいイラク戦争と、1937年、廬溝橋事件を突破口にまたたく間に全面戦争に突入したときの日本の態度が同じだという。

 どういうことかというと、当時の首相(「ものすごく家柄の良い近衛文麿」と文中にあり、ちょっと面白かった)は、「国民政府を相手とせず」と、戦争の相手国なのに眼中に入れないでどうするみたいな発言をしていたとのこと。
その意味は、「今事変は戦争にあらずして、報償なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認めるところ」なのだそうだ。
しかし、加藤陽子さんは、「報償というのはもっともっと軽い意味であり、当時の国際慣例で容認されるのは、例えば相手国が条約を守らないといった場合に容認される対抗的な実力行使とは、相手国の貨物や船舶を抑留する、留めてしまって困らせるといったもの」だとし、「1937年8月から本格化した日中戦争が報償の概念で認められる範囲の実力行使であったはずがない」と指摘する。

 アメリカの大国主義に対して、(何故お前が1番えらいと思うんや!)と腹立たしい気持ちがあるが、それと同じことを日本が、中国や当時の朝鮮に対して何度も何度も行っている。
その事実を詳細に知れば、いくら過去の歴史であると言っても、ちょっと頭がクラクラする。
少し深呼吸して、整理しなければ…。
なにしろ明後日から、中国の大学生相手に授業をする身なのだ。ス~、ハア~~。

 まだ最後まで読んでいないが、高校生も読める軽いタッチのこの重い本、「買って良かった本」今年前半No.1かも。
コメント
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