毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「ガザ在住者のブログより」 2014年7月30日(水)No.951

2014-07-30 17:47:42 | 反戦

京都の岡真理さん発信、拡散希望の文をフェイスブックで見つけた。 

「いつになったら、パレスチナ人は民族として認められるのだろう? 人間として認められるのだろう? 民間人として認められるのだろう? いつになったら、ぼくらの子どもたちは、人権を認められ、殺されなくなるのだろう?」(ブログ文より)

 

血の迫害を体験したユダヤ人が、なぜ今は真逆の立場で、

このように簡単にパレスチナ人を虐殺するのか。

歴史から学んでこそ人間はよりマシな人間になれるのだ。

今、世界に蔓延る、人間の思考停止を心から憎む。

世界支配の主導権争いのなかでアメリカが果たす犯罪的役割がますます顕在化し、

そのアメリカをバックに「人殺しをしたいからする」イスラエル。

ちくしょー!!!!!!

写真はアムネスティ・インターナショナルより転載。

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オマル・グライエブ( ガザ地区) / 2014 年 7 月 22 日のブログより。

「ガザで子どもは作らないとぼくが心に誓った理由 」 

イスラエルは言った、ガザへの地上侵攻は限定的なものにとどまると。まるで戦車がほんの数メートル前進するだけかのように思わせる口ぶりだ。最初の2日間はそうだった。イスラエルが広範な民族浄化と集団虐殺を計画しているなどとは、ほとんどの者が分かっていなかった。

イスラエルの目的は、ひとつの地区をそこに住む人間もろとも一掃することだった。事態は日曜の夜10時ごろからエスカレートし始める。イスラエルの無人機が低空に舞い降りて、大きな音で唸り始めた。戦車が前進する。アパッチヘリとF16型戦闘機が爆撃し、同時に、援護する。それから、ガザ市東部のシュジャイヤ地区を激しく叩きはじめる。

ノンストップの砲撃。我が家からもすべて聞こえた。爆発や発射の回数を数えるのも追いつかなかった。

何百もの、何百もの、家族が避難した。自分たちの家と生活をあとに残し、どこでもいいからより静穏な場所を探して。ガザに安全な場所などどこにもないのだけれど。

彼らは通りを歩いた。子どもたちを腕に抱きかかえて。死から逃れようと。ブルドーザーのシャベルにのぼった者たちもいる。多くは、ただ、通りを彷徨い歩くだけ。どこに行けばよいか分からずに、あるいはどこにも行くところなどなくて。

 

巨大な火の玉

やがて多くの者たちはシファー病院に集まることになる。そして目にするのだ、親族や隣人や友人たちの遺体が運ばれてくるのを。

あの夜のことをどう言い表せばよいのか分からない。言葉が見つからない。息が苦しくなる。シュジャイヤ地区が燃えているとき、ガザは一個の巨大な火の玉のようだった。

ガザのすべてが闇に包まれていた。停電は一日20時間、あるいはそれ以上に及ぶ。シュジャイヤに対する容赦ない攻撃、人々が叫び、火が燃え盛るのをぼくらは聴いた。

ぼくたちが持っている物と言えばラジオだけだ。そしてラジオが教えてくれるのは、もうすでに知っていること、そして嘘であってほしいとぼくらが願っていること。ぼくらは、最後に残された希望の糸にしがみついていたけれど、やがて真実に直面しなければならなかった。シュジャイヤの人々は、虐殺されていた。

毎夜、毎夜、ぼくらは時間を数える、夜明けが訪れ、空が明るくなり、陽の光がガザに注がれるのをひたすら待焦がれながら。だが、あの晩は違った。太陽にすぐに昇って来てほしくはなかった。光が露わにするであろうものを目にするのを少しでも遅らせたくて。

 

自然災害を凌いで

それがシュジャイヤ地区だとはにわかには分からなかった。弾丸の津波が一帯を襲ったかのようだった。あるいは、燃え盛る地震が。何か破滅的な自然災害。だが、実際に起こったことは、自然災害を凌いでいた。人間性すらも凌駕していた。1948 年のナクバが、1982 年のサブラー・シャティーラの虐殺と同様の場面をともなって、再現されたかのようだ。5 年半前ノキャスト・レッドの大虐殺もフラッシュバックする。

赤十字は、シュジャイヤ地区における人道的停戦を提案した。医学生が、何十人もの死者や何百人もの負傷者を瓦礫の下から引っ張り出せるようにと。イスラエルは当初、停戦を拒否したが、あとで受け入れ、そして、停戦を破って、シュジャイヤ地区を爆撃し、医学生や救急車に対して発砲した。

医学生たちは、72人の亡くなったパレスチナ人を運びだすことができた。その遺体はいくつもの通り全体に散らばっていた。400名以上の負傷者が病院に運ばれた。医学生たちは、死傷者の数は劇的に増加するだろうと 語っている。

外国人や地元のジャーナリスト、医学生、医師は、ただ信じられないという思いで泣いていた。彼らは虐殺を見たということを世界に伝えた。これを見えないままにしておくことなどできない。

ぼくらすべてが、生涯かけても消えない傷を負った。

破壊され、廃墟と化したシュジャイヤの写真がその朝以来、世界を駆け巡っている。だが、息も出来ないくらいに痛ましいのは、親たちが、亡くなったり怪我をした子どもたちを運んでいる写真だ。彼らは、山をも動かさんばかりに泣いている。

いつになったら、パレスチナ人は民族として認められるのだろう? 人間として認められるのだろう? 民間人として認められるのだろう? いつになったら、ぼくらの子どもたちは、人権を認められ、殺されなくなるのだろう?

 

自衛?

きみに想像できるだろうか、両腕に亡くなった子どもを抱きかかえる父親の打ち砕かれた思いを。彼の喪失感が想像できるか? そして、自分の子どもを守ってやることができなかったと彼がどれだけ自らを恥じ、罪の意識を覚えているか。

だから、ぼくは誓うのだ、ここガザで子どもなど決して作らないと。自分の子どもをこんな世界にもたらした挙句、守ってやれないなんてことは、ぼくはしないと。自分の子どもが死ぬ姿など目にしたくもない。ほかの子どもたちが死んだり、その親たちが泣くのを目にするのさえ痛ましすぎるのだから。自分がそれを経験するなんて、ぼくには耐えられない。

いったいどうしたら世界は、一つの地区全体をその住民もろとも一掃することが「自衛」だとか「公正なこと」だと思ったりできるのだろう。どうしたら子どもたちが「戦闘員」や「テロリスト」だなどと思えるのだろう?

近くのモスクが寄付を募り始めたけれど、ぼくはますます無力感を覚えるだけだ。愛する者や自分たちの家や、馴染んでいた生活を失った者たちに、いったい何を与えてやることができる?

彼らにぼくの心を捧げ、どうにかして彼らの痛みを和らげてあげることが出来たらと思うけれど、ぼくにはできない。だから、このささやかな募金キャンペーンに加わった。だが、どうしたら、お金や物質的なもので、子どもを失った埋め合わせをすることができるだろう。

ぼくは何時間も何も感じず、麻痺し、息もできず、呆然としていた。頬を熱くして。最初は一滴の涙も流れなかった。だが、そのあと、急に涙がこみ上げ、洪水のようにあふれ始めた。涙はとても熱く、ぼくの頬は焼けるように熱くなった。

火曜日、ガザにある保健省によれば、封鎖されたガザ地区に対する現在進行中の攻撃が始まって以来、すでに600人のパレスチナ人が殺され、3700人が負傷したという。うちシュジャイヤの虐殺で、72人が殺され、400人が負傷した。

人々は、自宅のベッドで寝ていたときに、戦車の砲弾を雨のように浴びた。逃げ出すか、瓦礫の下で死ぬしかなかった。

 

人間性よ、さらば

ぼくは今日、自分の人間性と魂に別れを告げ、それらを悼む。ぼくは死にたえたアラブのネイションとアラブの指導者たちに別れを告げる。だが、それを悼んだりはしない。人権団体もだ。人権団体にも別れを告げる。彼らはいつだって、人権を守ることなどできはしなかった。報告書や記録がどれだけ書かれようと、罪もない子どもたちを守りはしない。

ぼくはまた、ガザで活動するすべての援助機関にも別れを告げる。パレスチナ人の血を何百万もの「寄付」を集める宣伝の身代わりに利用しているのだから。ぼくは、国際社会の人間性にも別れを告げる。

オマル・グライエブ ガザのジャーナリスト、ブロガー。 gazatimes.blogspot.com (ブログ)、 @Omar_Gaza.(ツイッター)

[翻訳:岡 真理]

http://electronicintifada.net/content/why-i-vowed-not-have-children-gaza/13614

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