2013年7月、淀川キリスト教病院に入院していたときの遅素媛さん。右は夫の李達夫さん。
中国からの帰国者李達夫さんのお連れ合い、
遅素媛さんがこの6月に亡くなりました。
7年間に及ぶ闘病生活でした。
2011年7月、貴州で日本語学校を経営する娘さんの急死の知らせを受けた夫妻は、
自宅の大阪から貴州に飛び、悲しい対面をしたのですが、
北京経由で大阪に帰る際、休憩に立ち寄ったホテルで、
憔悴した素媛さんが階段から落下し、
一命は取り留めたものの、脳の損傷が大きく、
歩くことも話すこともままならぬ生活が始まりました。
下が事故当時のことを書いたブログ記事です。
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李達夫さんのこと 2011年8月9日(火)No.180
あれからちょうど7年経ちました。
去年6月に身体に末期癌が見つかり、あと4ヶ月の命と言われ、
あちこちに転移しながらも1年間、力が尽きるまでがんばった素媛さん。
李達夫さんも毎日、毎日(そんなに来なくてもいいと病院の人に言われたそうですけど)
膝を傷めた足を引き摺りながら団地のある大隅東から茨木の病院に通いつめ、
いつも4時間付き添ったそうです。
二人の戦いは終わりました。
下は絵を描くのが好きだった素媛さんが、元気だった時に描いた油絵です。
それもこれも夫の深い愛があったからこそ!
私も夫にやさしくしなければ!!と反省しきりです。
夏休みに入り、ラジオ体操に行く子どもたちの足音が聞こえてきます。この子たちが平和で暮らせるように!老体にムチ打たなければ!!
ブログの補足です。
お母様が日本人である李達夫さんは、市中引き回しをはじめ、兄弟とともに文化大革命の13年間(19歳から32歳まで)、あらゆる迫害と屈辱を受けたそうですが、李さんのお母様は「劉少奇一派のスパイ」だということで、農場監獄どころかさらに酷い監獄で8年間、責め苦を受け続けたそうです。お母様がどのように亡くなったか、李さんは詳しく語りません。
そんな文革の暴風の中のたった一つの生きる希望は、遅素媛さん(朝鮮族出身)の献身的なサポートでした。素媛さんは、文革の間、ずっと物質面でも精神面でも李さんを支え、文革後一族の反対を押し切って結婚し、貧しさの中でも家計をきちんとやり繰りして二人の子どもを育て、いつも自分はホンの少ししか食べず、身体の大きい李さんがひもじい思いをしないようにお皿にたくさん盛り付けていたそうです。
李さんが2003年、60歳の時、「私は、母の国、日本に行きたい。」と言ったときも、素媛さんは嫌な顔一つせず、全く知らない言語を話し、恐ろしい資本主義の国と宣伝されていた日本に、李さんと一緒にやってきました。
李達夫さんが近畿中国帰国者支援交流センターの日本語教室に通っていたとき(私はそこで日本語教師をしていました)、素媛さんは「自分は日本語の勉強は無理だから絵を描いて待っている」と狭い市営団地の部屋で絵を描き、李達夫さんが帰ってきてドアを開けたとき、いつも、ちょうど出来たての水餃子で出迎えてくれたそうです。
自慢の娘は中国貴州で日本語学校を開設し、絵の好きな息子は横浜の空調設備の会社で働き、生活が順風満帆に行っていたと思う矢先の2011年7月、娘さんが過労が原因で亡くなってしまい、その直後に素媛さんは脳挫傷やなんやの瀕死の重傷を負い、その後は今年6月に亡くなるまで夫婦の苦闘が続いたというわけです。
時代に翻弄された二人の人生ですが、残された李達夫さんはまだ、これからも生き続けなければなりません。何とか元気に生活し続けてくださることを祈るばかりです。
李達夫さんとさらに意思疎通を図るためには、いよいよ私も中国語会話を勉強しないと……。
素媛さんの生き方がまさに大和撫子ですね。
中国の女性は強くて、たいていの夫婦は妻上位だと聞いていましたが、中国の女性にもこんな方がいらしたんですね。
大いに見習わなくては!と思う毎日です。
優しい夫なのに冷たい妻の私です。は・ん・せ・い!!