与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を
3年「日本文学選読」の授業で紹介しました。
この大学では2回目です。
学生にとって教師は重要な存在でしょう。
しかし、同じことは教師にも言えます。
教師にとって、どんな心を持ったどんな学生たちと出会うか、
これは何年間かを棒に振るかも知れないぐらいの重要な出会いです。
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を
紹介できるクラスと巡り合えたのは私にとって、
ラッキーなことです。
と言うか、この3年生達とは
互いを育て合い、互いに育ち合ってきた
という実感が私にはあります。
それにしても、天皇制を思想的核にして、
富国強兵による中央集権国家を急速に構築しつつあった明治において、
晶子がこの反戦歌を世に問うたことは、
どれほど大きい出来事だったか、
想像しただけで感動に身の震える思いがします。
晶子は、晩年日中戦争に対して体制翼賛的立場に転じるのですが、
そのことをもって、明治期の晶子を断罪する気には到底なれません。
晶子は明治期に
その輝きの全てを発光しつくしてしまったのかも知れません。
ーーー下は以前のと最新のwikipediaを組み合わせたものですーーー
1904年(26歳)、日露戦争に徴兵され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で「明星」9月号に「君死にたまふことなかれ」を発表した。
この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と猛烈な批判に晒された。文芸批評家・大町桂月は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子は『明星』11月号で反論し、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで、
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わない歌に、何の値打ちがあるでしょう」
と全く動じることはなかった。
さらに晶子は非難に屈するどころか、翌1905年刊行された詩歌集『恋衣』に再度“君死にたまふことなかれ”を掲載した。
1 ああおとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも 、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
2 堺の街の商人(あきびと)の 旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事ぞ、
君は知らじな商人の 家のおきてに無かりけり。
3 君死にたまふことなかれ、
すめらみことは戦いに
おおみずからは出でまさね、
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
おおみ心の深ければ
もとよりいかで思されん。
4ああおとうとよ 戦いに 君死にたまふことなかれ、
過ぎにし秋を父ぎみに おくれたまえる母ぎみは
嘆きの中にいたましく わが子を召され家を守(も)り、
安しと聞ける大御代も 母の白髪は増さりぬる。
5 暖簾のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや 思えるや
十月(とつき)も添わでわかれたる
少女(おとめ)心を思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君 死にたまふことなかれ。
明治時代の詩でも、今なお新鮮の思うのは、変わらぬ心だからでしょう。
中国の学生さんたちにもきっと心は伝わるはずです。
いつもこの詩を読むとき、なぜか涙してしまいます。
私も今回、この詩を読んでいて胸にぐっとくるものがありました。
日本は今、さんざん武器を買って軍拡し、集団的自衛権行使を無理やり決めて、戦争できる国づくりが着々と進行していますからね。
何年か前に授業で取り上げた時以上に、今回の晶子の詩は切迫感があります。もう、教育勅語まで容認する政治家がたくさん湧いてきた日本……。止めるのは国民しかいません。