連日、ひっきりなしに改憲、集団的自衛権、安保法案、大阪都構想など、
「これでもか!まだ考えるか!はやく思考停止しろ!」とばかりに
国や自治体を危険極まりない方向に舵取りをする政府や自治体首長が
ガンガン押しまくってきていますが、
こういうときこそ、一つ、落ち着いて座布団に座り、コーヒーを淹れて、
しっかりと考えてみたいものです。
「沈思黙考」、これ、
煽られっぱなしでアタフタさせられようとしている今の日本国の人々が
一番にしなければならないことでしょう。
沖縄タイムスのインタビューを一読しました。
随所で(なるほど)と思いました。
ここにコピーして、もう一度じっくり読み返そうと思います。
今日は一週間ぶりにインスタントじゃないコーヒーを淹れようっと。
戦後70年、日本国憲法が岐路に立たされています。安倍晋三首相は来年夏の参院選後の憲法改正に意欲を示し、第1段階の緊急事態条項や環境権の新設を足掛かりに、9条改正も視野に入れていると指摘されています。3日の憲法記念日を前に、2人の論客に憲法と民主主義の行方について聞きました。
憲法について語る上智大学の中野晃一教授
【憲法特集】平和な社会 9条が要に :中野上智大教授 2015年5月2日
- 憲法は国家権力にたがをはめ、よりよい社会への理想を掲げたもの
- 安倍首相の改憲の狙いは9条。人権や教育への弾圧が始まっている
- 国民への政府の基本的考え方は沖縄に現れている。連帯強め抵抗を
憲法は戦後の民主主義にとって最大にして最後のとりでです。憲法や立憲主義とは、人類が国家権力にたがをはめて、人の尊厳が守られるよりよい社会をつくる理想を掲げたものです。「押しつけ憲法」との論もありますが、成立経緯で日本人が関わらなかったということはなく、洋服と一緒で、自分のものとして着こなしてきた。押しつけとは、そう感じた人、戦前、戦中の日本の形が良かったと思う人たちがうめき声をあげているだけで、国民が共有する必要はありません。
憲法がうたう理想は常に未完のものです。過去に人類が繰り返してきた戦争や搾取、人権抑圧、それらを未来に残さないという、我々の世界史的な役割を積極的に意識することが重要です。
安倍晋三首相は、来年の参院選後の「改憲」に意欲を示していますが、方向は「壊憲」というべきで、手法と中身はでたらめです。憲法は、国家権力を縛るためにあるという立憲主義を守らないといけないところまできています。
集団的自衛権行使についても、正規の改正手続きをとらず、解釈改憲ですませました。この手法は裏口入学のように粗暴で、改憲論者の学者や本来の意味での保守の人からも批判が出ています。一国の憲法をこんなに粗末に扱うと、この先、この国はどうなっていくのかと懸念され、信用されません。国際社会で一定の地位を保つということからも、およそやってはいけないことなのです。
中身では、自民党の憲法改正草案がありますが、およそ憲法とは呼べない代物になっています。立憲主義にのっとっていなければ憲法とはいえませんが、この大前提から壊れています。公益や公の秩序の許す範囲でしか権利を認めないと書いてみたり、奴隷を禁じる条項を削るなど、憲法のあり方の基本が理解できておらず、あるいは意図的に無視していると思います。
■「選挙独裁」の今
憲法学者からは明治憲法より質が悪いとの指摘があります。明治憲法は、当時の最先端であるプロイセンの憲法に学び、国の英知を結集して作りました。立憲主義は終わりのないプロジェクトで、人類は試行錯誤を続けていますが、自民党草案は明治の英知が作ったことさえできていません。
改憲の狙いは9条ですが、9条こそ憲法の中心なのです。戦争せず、平和であるからこそ、人権の順守や学問の自由があり、教育もできます。戦争ができる国にすると、それらの部分の弾圧が必ず始まり、すでに始まっているといえます。解釈改憲で憲法を空洞化させておいて、憲法は実態に合わないですねとの論法で、ほかの条項も変えないといけないといい、破壊が次々に進むことになります。そういう危ない状況です。逆にいうと、いかに9条が憲法の要であるかということを示しています。
「選挙独裁」という言葉が英国の政治をもとにできました。小選挙区制度をベースにすると、過半数の得票がなくても圧倒的な議席を獲得でき、個々の政策が支持されていなくても、支持されたものと政権が勝手に解釈して進めることを指しています。
選挙での自民党の支持は16~18%しかありませんが、圧倒的な議席を得ました。選挙時には争点隠しをした集団的自衛権行使についても、選挙後は信任されたと開きなおりました。支持されたものとして集団的自衛権行使を含む安保法制を進めるのは、国民をだまし討ちにするものです。現政権は民主主義の制度としてではなく、支配するためのゲームとして選挙にアプローチしており、まさに選挙独裁です。
安倍首相の特徴は、「日本を取り戻す」という選挙スローガンが典型的ですが、被害者意識が強く、何かを取り戻さないといけないという強迫観念みたいなものがあります。
首相にとっては第1次政権の失敗が直近の被害体験です。やり残したことをやりたい、積み残したことをやらないといけないとの思いが強く、集団的自衛権もそういう面があります。
米国が要請してきたということはあっても、日本の集団的自衛権の行使が、米国にとって今、火急なものかというと、そんな感じもありません。小泉政権時、米国はイラクやアフガニスタンで戦争をやっている状況で、日本に行使を求めました。小泉政権はできませんでしたが、安倍さんは当時、やりたかった。その積み残しを今実現しようとしていると考えられます。
■周回遅れの発想
歴史修正主義も被害者意識に基づいています。小泉さんは靖国参拝を毎年繰り返し、中国や韓国との関係を壊しましたが、関係が壊れても日米関係さえ良ければあとは何でもついてくるといっていました。
当時の米国のブッシュ政権は、日本が軍事的貢献ができるようになるのであれば、歴史修正主義的な動きには目をつぶっていました。安倍首相は、今もそうだろうと、周回遅れの発想のまま歴史修正主義にまい進しているようにみえます。
米国は、イラク戦争の失敗や国力の低下、権威の失墜を踏まえ、単独行動主義を改めました。この間、中国が台頭しましたが、米国は中国を警戒はしても、経済パートナーとして、日本よりも重要な国とみなしています。米国はむしろ、日本が中国や韓国をいたずらに挑発して、無用な緊張を北東アジアでかもし出すことを苦々しく思うようになっています。
米国にとって、中国を挑発するような集団的自衛権よりも、TPPをのませるといったことが優先度としては高いでしょう。安倍首相は集団的自衛権をやる、TPPもやる、中国が主導するアジアのインフラ投資銀行AIIBに入らないなどと、米国にごまをすって、中国、韓国が反発する歴史の書き換えを進めているように思えます。米国は変わり、かつてのように目をつぶってはくれないことに気付いていないのかもしれません。
歴史修正主義は、戦後のサンフランシスコ講和条約体制に対する直接の挑戦という側面があり、米国の議会、ホワイトハウスの中でも安倍政権に対し強い口調の批判も出るようになっています。歴史問題で、安倍政権は米国からはしごをはずされる可能性があると思います。
集団的自衛権や安保法制の議論で公明党がブレーキ役になっているという見方があります。手法としては、ハリウッド映画であるようなグッドコップ(良い警官)、バッドコップ(悪い警官)の役割分担で、へたな漫才をみせているといえます。政策を進めるための演出の一部です。
ここまでやりたいと自民党がいえば、公明党が登場してトーンダウンさせて、さも危なくないものになったという形にみせる。安保法制の与党協議で、多くの国民は集団的自衛権の行使に際し、公明党が頑張って国会の事前承認が必要になったと、誤解しているかもしれません。実際はそういうことになっていません。政府、与党は国民の印象操作を確信犯的にやっているとしか思えないのです。
■知性使い思考を
これからの安保法制の議論では、そもそも論を忘れてはいけません。歴代の内閣は憲法の歯止めがあって集団的自衛権行使にはノーといってきました。イラク戦争の時に、集団的自衛権の行使が認められていたら、日本はどうなっていたか。我々が知性を使って考えることが何より大事だと思います。
政府は印象操作で「この道しかない」と言いますが、普通の知性をもって考えれば、この道しかないはずはないと分かります。おかしいと思ったら、その理由にこだわり、突き詰め続けるしかないと思います。
沖縄の基地問題についても政府は、威圧することで県民に無力感を持たせ、抵抗できない気分にしようとしています。人権や平等、地方自治など、憲法に照らしても、沖縄の過重負担の現実や政府の手法は許されません。米国など国際社会に、この現実が許されないものだと訴えて行く必要があります。
政府の国民に対する基本的な考え方は、沖縄に現れていることを直視し、県外の人はひとごとではないと理解すべきでしょう。同じ憲法下に生きる者として、根気強く沖縄との連帯を強め、抵抗していかないといけません。(聞き手=東京支社報道部長・宮城栄作)
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1970年東京生まれ。政治学(日本政治、比較政治、政治思想)。東京大学(哲学)、英国オックスフォード大学(哲学・政治学)の両校を卒業した後、米国プリンストン大学で政治学の博士号を取得。99年から上智大学で教鞭をとっており、2011年10月に教授となった。
【憲法特集】なぜ改憲? 説得力欠く :木村首都大准教授
憲法について語る首都大学東京の木村草太准教授
- 首相が憲法に正統性がないと感じるなら、選挙に出るべきではない
- 世界中の平和を全部引き受ける資源や実力を日本は持っていない
- 選挙で勝った内閣は何でも決められる―が安倍首相の憲法観
憲法とは、私たちがこういう国家をつくりたい、という目標や理念を実現するための具体的な制度を定めたものです。
本来、憲法改正は国民の間で今の憲法のこの条項を変えたい、という気持ちや理念が広く共有されて出来上がっていくものです。今の状況で(国民に)そういう気持ちがあるのかというと、到底ないと思います。
安倍晋三首相は改憲に意欲的だと言われますが、なぜ改憲が必要なのか理由が分かりません。どんな人たちがこういう改正をしてほしいという声があるのだと丁寧に説明できなければ、説得力はなく、今の状況では個人の趣味で言っているだけにしか聞こえません。
「押しつけ憲法」との指摘がありますが、果たしてそうでしょうか。今の憲法は、日本の国家体制を明治憲法の時よりもっと民主主義的にしろという連合国総司令部(GHQ)からの要求を日本側が自発的にのんでそれに基づいてつくられたものです。GHQが提案したものに対して日本側も要望を入れて、二つの主体が交渉してつくったものです。
日本国憲法に正統性がないとするなら、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本が独立を果たした時、今の憲法を破棄するという選択もあったはずです。でもそうはしていません。むしろ、その憲法に従って選挙をしたり天皇陛下が在位しています。
もし安倍首相が日本国憲法に正統性がないと感じるのなら選挙には出るべきではないし、首相を任命する天皇陛下に対し、(今の)天皇には正統性はないと言わなければいけません。でも、そこまでの覚悟は感じられないし、そうした主張はまったくしていません。
いわば、おいしく食べているものを、これは押し売りされたものだと言っているような状況です。押し売りされたと言っている割には随分おいしく食べているなという感じがします。
■9条前提に貢献
改憲派の皆さんが改正が必要だとして真っ先に挙げるのが9条です。
9条が果たしてきた役割を端的に言うと、外国に地上軍を派遣したり空爆をしたりすることがなかったということです。9条があることで、日本は国際貢献を求められる場面で、例えばインフラ整備や技術協力など、
武力行使によらない方法をいろいろ工夫する必要がありました。
9条改正論の主張には二つの流れがあります。一つは日本の安全のために改正が必要だという議論です。もう一つは世界平和に貢献するために必要だというものです。この二つを混同することは間違っています。
まず、日本のためにという点です。日本の防衛という点では9条は何も拘束していません。自衛隊や日米安保も9条の下でそれと矛盾なく存在できるわけですから、それを改正する必要性はありません。
もう一つは、(今の憲法では)外国に軍隊を送れないということですから、国際紛争があった時に武力行使をして、(同盟国から)あいつをやっつけてくれという声には応えることができないというのが今の憲法の制約です。
ただ、冷静に考える必要があります。日本は大国ではありますが、世界中の平和をぜんぶ責任を引き受ける資源や実力は持っていないわけです。ですから、どんなに外国で困っている人がいて、あいつをやっつけてくれという声があっても、その全てに応えることはできないわけです。
その状況でどうするかということです。場当たり的に選択的に紛争に介入していくという方法と、全てにおいて介入しないという方法があります。すべてに介入しない方法の方が日本独自の国際貢献というものができるはずで、9条を前提とした国際貢献の可能性をもっと考えるべきだと思います。
仮に9条を改正して海外で武力行使ができるようにするには自衛隊装備の大幅な増強が必要になります。そのためには年間数兆円の予算が必要になってきます。数兆円かけてイージス艦をもう1隻増やすのか、あるいはそのお金で難民支援するのか。どっちが国際貢献になるのかを考えてみれば、答えは一目瞭然です。
■論理弱い賛成派
安倍政権が進めている安全保障法制論議について考えてみます。官邸からいろんな情報がたくさん流されていますが、大事なことは、自衛隊を軍事活動のために海外に送ることをどういう基準で認めるべきなのか、あるいは認めないべきなのかという議論だということです。
この論点では(安保法制に)反対派の関心の弱さよりも、賛成派の論理の弱さの方が目立ちます。外国での戦闘行為を援助するわけですから、当然そこでは殺される人もいるし、日本がその一員として恨みも買うこともある。自衛隊員は危険な任務にさらされることになります。それがリアルな状況です。
その時に自分たちがやったことにどれだけリアリティーが持てるか、どれだけ責任感を持てるかが日本国民全体に問われています。責任感を持てないようであれば、その政策はやめるべきです。今のままでは、自衛隊員が死んでも、現地の人が死んだとしても、遠い外国で起こった事故ぐらいのことにしか多分受け止められないのではないかと思います。
安倍首相の憲法観を知るには、昨年7月の集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定の解釈をめぐる対応を見ればはっきり分かります。
閣議決定の文言自体は、日本と外国が同時に攻撃を受けている時に反撃できるという趣旨の文言なので、個別的自衛権の再確認をしたとも読めます。そう読むのが自然な文言になっています。
だが、安倍首相は必ずしもそう解釈はしていない。場合によっては日本が攻撃されていなくても機雷掃海はできるとか、ミサイルの撃墜もできると言います。その一方でイラク戦争やアフガン戦争には参加はできないとも強調しています。イラク戦争の状況で機雷がまかれた場合はどうなるかと問われれば、矛盾した発言になる。
閣議決定の文言に対する首相の解釈は極めて曖昧で不正確な状況です。そこにある種の憲法観が表れています。文言なんてどうでもいい、自分たちで決めた閣議決定も含めて憲法の文言なんかは関係ないのだと。内閣あるいは選挙で選ばれた人たちが判断をして、それで審判を受ければいいのだというタイプの憲法観です。
■憲法使い阻止へ
こうした安倍首相の憲法観は名護市辺野古での新基地建設問題での対応にも反映されています。
いくら地元が反対しても、その声には耳を貸さない。選挙で勝った内閣は国民からの白紙委任を受けて何でも決めることができると思っています。それが安倍首相の憲法観だからです。
辺野古新基地問題では、安倍政権が地元の同意が必要のない事項だと認識していることが最大の論点だと思います。沖縄側はその点をはっきり否定して、法制度的に、これは地元の同意が必要な事項なんですよということを突き付けていくことが大切です。内閣と米国が基地を辺野古に移したいと決めたが、それが国民代表である国会の承認が得られているのかということを厳しく問いかけるべきです。
私が提起した辺野古基地設置法を議員立法で提案する動きも出ています。それがちゃんと提案できた場合、国会が否決すると国会としては辺野古に造るなという意味になります。そういう事実を持って内閣に対し、国会が否決をしたではないかと沖縄県側は言いやすくなります。
逆に可決してくれれば、憲法95条の住民投票になります。それなら沖縄に決めさせてもらいますとなります。そこで否決されれば法律は成立しないのですから、移設は否決されたということになります。
制度的に沖縄県の同意が必要な事項だということをもっと理論武装して発信していく必要があります。新基地建設反対が正しいことだと確信を持つためには憲法に基づいた理念と理論で武装しないといけません。それが憲法を使うということなのです。(聞き手=編集局社会部長・稲嶺幸弘)
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1980年横浜市生まれ。憲法学者。東京大学法学部卒業。同大助手を経て、2006年から首都大学東京准教授。研究テーマは思想・良心の自由、平等原則。主な著書に「憲法の想像力」など多数。本紙で「憲法の新手」(第1、第3日曜3面)を連載中。
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=114104(中野晃一)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=114105(木村草太)