日本・ベルギー・英国 喫茶モエ営業中
Brugge Style
人生。ポリーニのピアノ
サンジェルマン伯爵かドラキュラ伯爵かという存在感が乙女心に好きだったミケランジェリの後継はポリーニ御大しかいないだろうというので(どういうのだ)、ポリーニを聞いてきた正統派”素人”クラシック乙女のあたくしだが、実はポリーニの実演を聞くのはかなり久しぶりだった。
年配の乙女となった今も素人の域は出ないと断った上で、今春ロンドン2夜目のポリーニの演奏について書く。
ベートーベンのソナタ、‘The Tempest’ ‘Waldstein’ ‘Hammerklavier’ 。
月並みで恥ずかしいほどだが、わたしがベートーヴェンのソナタを好むようになったのは、若かりしポリーニの演奏によってであると言っても過言ではない。
当夜の演奏はCDで聞く音とははっきり全然違っていた。
「はっきり違う」という点だけは、下馬評通りと言ってもいいだろう。
彼の演奏は正確無比でもなく、コントロールを失いそうになった場面もあった。20世紀も終わる頃から彼について回るようになった否定的な言葉が頭に浮かぶ。
しかし、音を詰め込んでもつれるかのように疾走する演奏は、全体で見ると、すべてがただ単にそのようであるべきであるという豪快な美しさであり、まぎれもない傑作だった。
平凡な喩えでその傑作のごく一部を説明することが許されるなら、人生の懐かしさ、失ったもの、未来、悲しみや喜びや怒りをすべて音にしたようで「何でわたしの、いや、おそらく全人類(含ベートーヴェン)の個人的な『人生』をベートーヴェンとあなたはそれほどまでもよく知っているのだ?」という感じ。
あらためて「美」とは何か(今日は始めませんのでご心配なく)と考えさせられた。
彼の演奏が「若い頃とは違う」と酷評されるようになってからもリサイタルを避けないのには理由があるだろう。別に金銭的に困っているわけでもないだろうし。
彼はずっと若い頃に当たり前のようにやってのけたことは超えたのだ。そうだ、真の芸術家は自分の一番上手くできることに満足して、同じことを繰り返したりはしないのだ。ポリーニの場合は、より感情的であること(感傷的ではなく)、より霊感的であることを目指しているように感じた。ベートーヴェンが晩年の体調にも関わらず、例えばハンマークラヴィーアにあれだけの音と早さを要求したように、彼もまた演奏する度に現れる新しい発見とその豊かさを表現して観衆に開示すべく、音楽を追求しているのかもしれない。実際、ハンマークラヴィーアの演奏には眩惑された。
...まあ彼クラスになったら、彼自身が語らないまでも、観衆がプロからアマまで、いくらでも解釈や物語を紡いでくれるものなので、わたしがここで何を言ってもナンセンス、ということでご了承下さい。
彼がすたすたと舞台に歩みで、座るや否や精神集中をするあの間もなく弾き始め、演奏しながら歌っているのを聞くのはなんとも言えない喜びだった。
"All the world's a stage. And all the men and women merely players. " というシェイクスピアの一節を思い出した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )