goo

アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅




何年か前(2010年)にも話題になった、ティム・バートン監督の「不思議な国のアリス」の続編がこの夏公開されるそうだ。

『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』。


あ、わたしは見ん。絶対に見ん(笑)。


前作でマッドハッターを、心に問題を抱えた人物に仕立て上げたのを発展させ、救世主にして戦士であるThe One、アリスが問題解決に奔走する...

と、あらすじをきいただけで身震いがする。

ティム・バートン監督の一作目「不思議な国のアリス」をわたしはワクワクして見たが、鑑賞後の感想は今も変わっていない。


ルイス・キャロル原作「不思議な国のアリス」が、時間と空間を超えて古典になり、世界中で愛されているのは、あのお話のキモが夢の世界の話だからだ。

目覚めているとき、われわれは因果関係を探し、分析し、意味づけをしようとする。
というのは、現実とはすでに何億万分の1秒前の記憶だからである。
「なぜ」「いかに」「いつ」というふうに、一連の出来事を言語化することなしに、われわれは現実や経験をとらえることはできないのだ(その言語化された一連の「お話」を「自己」と呼んでいるのである)。

だから「マッドハッターの狂気は幼児期のトラウマのせいである」というのは、因果関係を探し、分析し、意味づけることになってしまう。

しかし、自分が夢を見ているときのことを考えたら分かるように、われわれは夢の中ではその内容と自分との間に距離を置かず、すべてをありのままに経験している。
つまりマッドハッターの狂気にも、赤の女王のヒステリーにも、チェシャ猫の笑いにも、デタラメ歌にも、意味はないし、不条理でもない。

この距離のなさが「不思議な国のアリス」の豊かさ、おもしろさだと思うのだ。


わたしは鮮やかな夢を見るタイプで、毎夜のように空を飛び、ハシゴにひっかかったティッシュボックス製の友達の家を「家に入るときだけコツがいる」などと言いながら訪問したりする。
夢の中ではわたしはそれをちっともナンセンスだとは思っていない。
ナンセンスだと判断するのは、娘が「(実際的な目的や意図なしの)抽象的な夢を見るね」と感想を言うときである。
上記したように、「距離がない」ということが夢の世界の特徴であるからだ。
だから主人公アリスも、彼女のワンダーランドで次々と出会う事や人に意味を見出そうとしたり、不条理だと感じたりはしていない。


「『意味』もなければ『不条理』でもない世界の直感的現前が」、ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」を「本質的な意味で『夢の世界』たらしめて」いる。

あのストーリーを退屈な誰かの夢の話ではなく、すばらしいお話にしているのはそこだ。


それなのに、いちいち登場人物にトラウマや、出来事に意味を配していては、「夢の世界の話」ではなくなってしまう。
それは「不思議な国のアリス」の、あのファンタスティックなエッセンスを何割も損ねてしまうことになならないか?


子どもにハリウッドの既成の「意味」や「分析」を刷り込んで何になるのだろう。
ハリウッド流の「なぜ」「いかに」「いつ」という言語化の仕方を教えて、画一化された「自己」を大量生産しようとでもしているのか(ああ、それがグローバリズムか)。

例えば、善と悪がはっきり白黒に分かれていて「悪者」を倒しさえすればこの世は再び調和が取れるとか、ある人物が屈折しているのはトラウマのせいであるとか、本当の自分探しとか...あ、変な夢を見るのも心に問題があるからって言いたいのか?

「人間がどんな意識や意思をもっていようと、またそれをいかに意味づけていようと、否応なく彼らをまきこみ、強いている生存の構造だけを見ようと」する、そういうお話は人間の成長に不可欠だと思うのだがどうだろう。事実、昔話の多くはそういう骨子でできている。


大人もこの映画を見てまたぞろ「勇気をもらった」などど大絶賛するんだろうなあ...と思うとげんなりする。



太字はすべて柄谷行人著「意味という病」収録の「夢の世界」からの引用です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )