goo

olympia と表現の自由


Edouard Manet Olympia, 1863 Musée d'Orsay


「表現の自由」とは、作品の美醜、優劣、好悪、巧拙、善悪、快不快、道徳不道徳、常識非常識...それらに準拠した概念ではない。

作品の効果として美醜、優劣、好悪...が生ずるとすれば、表現の自由はそれよりも前の段階にある、表現すべてに対して保障されている無制限の自由のことだ。

それゆえに、一般の人々に嫌悪感を引き起こす種類の作品をこそ、公権力が制限してはならないのである。
公権力による制限はすなわち検閲である(検閲と展覧会やコンテストのための企画・編集は違う)。

なぜそのような自由が保障されているのか。
普段からものを作ったり、書いたりしている方はよくご存知だと思うが、何かを表現したいという強烈で切実で根本的な欲望がわれわれを「人間」にしているからだ(と、思う)。


表現の自由は、どんなものであっても、まずは公権力によって守られねばならない。
大多数にとって気持ちのいい、美しい作品だけを守るために表現の自由があるのではないのである。


つまり、

それが美しかろうが、それによって嫌な気持ちにされようが、ありとあらゆるどんな作品も表現の自由である。

そしてそれを批判するのも抗議するのもまた表現の自由だ。

しかし、ある作品が気にくわないから抹殺せよ、破壊せよ、公金を使うなというのはしてはならないのである。
ましてやそれを公権力自身がしてはならない。

表現の自由が制限されるケースがあるとすれば、それが法を犯す時である。
例えばある作品を見て多数の人が不快ですというくらいでは、法を犯している(人権を損なっているなど)とは言えない。一方、マイノリティへのヘイトスピーチは犯罪です。


ある作品が表現の「場」に出て、あらゆる批評を経て、それでも残るか残らないかは時間が経たないと分からない。
しかし、その「場」というのは歴史的に振り返って、かなり正確な判断を下す場だとわたしは思っている。


マネは1859年以降、官展サロン・ド・パリへの応募を続けた。
今では考えられないが、1863年に出店した『草上の昼食』は現実の裸婦を描いた、破廉恥だ、とスキャンダルになり(当時裸体は女神の姿を借りてのみ描くものだった)、1865年のサロンに出展した『オランピア』はパリの娼婦を描いていると『草上の昼食』以上の批判にさらされた。

近代化したパリと、そこでのコミュニケーション不全かのような人間関係を描き、また新しい画風をもって彼自身はサロンでの成功を切望したが、常に多数側からは非難轟々であった。

おもしろいのは1863年のサロン審査が厳しく落選作品が多かったため、ナポレオン3世は、「人々が各自で作品を判断できるように」と落選展を開催したことだ。
この「落選展」には冷やかし客も多かったが、結果、通常のサロンよりも多くの見物客が訪れたそうだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )