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ジョットの礼拝堂、パドヴァ。




ヴェネツィアの島側にあるサンタ・ルチア駅からゴージャスな特急列車(ファーストクラス、飛行機のそれのようだった)でわずか15分先、パドヴァを訪れた。

パドヴァと聞いて一番に思いつくのは何だろうか。

13世紀初頭に創設されたパドヴァ大学か。
のちにヴェネツィアでベリーニ家の娘と結婚して活躍したマンテーニャの出身地としてか。

この地で死んだペトラルカ(何年か前に遺骨のDNA鑑定がされていましたね)。
シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』。

あるいは建築家パッラーディオ(今回は彼の建築が24も見られるヴィツェンツアにも滞在した)の。
奔放な坊さんフィリッポ・リッピも、ルネサンスの重要な彫刻家ドナテッロもここに滞在したらしい。

特に美術史を勉強したわけでなくても、世界史を選択した人にとっては、ああ!というキーワードがいっぱいなのだ。


わたしの今回のパドヴァ訪問目的は、何十年か前に訪れて以来、湿気を取り除く調整室が設備され、修復作業も進んだというジョットによるスクロヴェーニ礼拝堂だった。
あの紺色の夜空が美しい礼拝堂!

空調室や修復科学技術、見学体制に関する感想としては...
イタリア人、やっぱりやればできるのね...であった。友達に聞いたところによると、イタリア語にはまさにそういうことわざがあるらしい。

ちなみに冬のこの時期には予約は必要なく、待ち時間20分ほどの間に「金貸しスクロヴェーニ家の野望とジョットの才能」のようなビデオを見せてもらった。


ヴェネツィア人もだが、パドヴァ人もみなとても親切で、とても感じがよかった。きっと彼らは幸せなのだろう。


・・・・・・


ジョットの話をするならば、チマブーエから始めなければならないだろう。

「ルネサンス」という用語を初めて用いたバザーリの『芸術家列伝』は、チマブーエから始まっているからだ。

チマブーエは、13世紀フィレンツェ生まれのイタリア・ゴシックに分類される画家で、彼の作品には古代ギリシャ様式を母体にしたビザンティン様式の影響が残っている。

キリスト教世界では偶像崇拝が禁止されているため、例えばビザンティン様式で聖母子像を描いた「イコン」は偶像ではないと説明される。信者が崇拝するのは板の上のイコンそのものではなく、その板の向こう側にある聖性を崇拝しているのであると。

ゆえに、イコンの顔は、聖母子の神聖としてふさわしいイメージを機械的にコピーしているにすぎないのであり、そこに作者が個性を表現したり、写実的に描いたり、工夫を凝らすようなことは許されていなかった。
現代のわれわれがビザンチン芸術などに見いだす、一種の硬直性や定型性は、一部、そういう理由にもよっている。

チマブーエはそこから一歩踏み出した「芸術家」であると考えられているのだ。

チマブーエが生まれる数年前に没したアッシジの聖フランチェスコが、史上初めて人間性と弱さを備えた「人間的イエス像」を語り、社会全体に爆発的な人気を誇った。そういった社会の雰囲気は、絵画の世界にも大きな影響を及ぼしたのである。

チマブーエの描く人物には自然な表情が付与され、身体の描き方、空間認識など、ルネサンス絵画への第一歩が見られるようになったのだ。





それをさらに進化させたのが、チマブーエの弟子、ジョットである。

彼によって説話、奥行き、人体への関心、感情表現が西洋絵画に加わった。

スクロヴェーニ礼拝堂は、聖母マリアの生涯が入り口から入って左手上から語られ始め、キリストの生涯へとらせんに繋がっていく。

誕生したばかりのキリストをベッドの上で優しくかきいだくマリア。
裏切り者のユダを見つめるキリストの横顔にたくされたその感情の複雑さ。

人間には見えない世界への鮮やかな憧れと恐れが、過去のある日に実際このような事件が起こったに違いないと思わせる想像力と説得力によって描かれている。


人間にとって「美」とはなにか、人間はこの世界をどのように解釈し表現するか、というわたしの一番の関心ごとにヒントが与えられた。
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