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Brugge Style
dance for ukraine 芸術のない世界なんて
昨夜はロンドンでDance for Ukraineというウクライナ支援チャリティーが開催された。
於London Coliseum。
英国のチャリティ団体、災害危機委員会 (Disasters Emergency Committee)を通して、元ロイヤル・バレエのウクライナ人ダンサー Ivan Putrovと、彼とキエフで共にトレーニングを受けたというAlina Cojocaruによって企画されたバレエ・ガラ。
パトロン筋からご招待いただいたのだが、チャリティーという催しの性格上、チケットを購入して娘と一緒に観覧した。
若手アーティストを育成サポートする英国のプログラム Jette Parker Young Artists Programのウクライナ人のメゾ・ソプラノKseniia Nikolaievaの国歌独唱によって開幕、アリーナ・コジョカルは「民主主義、自由、人命のため」と語った。
出演したダンサーがそうそうたる顔ぶれ。以下はプログラム。
ロシア人の傑出したダンサーNatalia Osipovaを、元々わたしは心から敬愛している。
今回彼女が示した勇敢さは...彼女の踊りを見ていつも感じるのは、彼女には「語る」ものが他の人よりも特別に多くあるということだ。
彼女には、他人の物語を自分をフィラメントのような媒体にして語れる、ある種「巫女」のような才能がある。
また、Natalia OsipovaにもMarianela Nunez にも言えることは、衆に優れたダンサーというのは、身体の使い方の美しさもさることながら、身体の可動域のその向こうにまで身体を開け、そこに「可能性が見える」。
どういうことかというと...
ここで芸術の役割とは、というのを思った。
芸術とは、無理解と排除と差別と憎悪で世界が覆われる時、言語も宗教も信条も文化も習慣も身体も違う「他者」との間にわずかな回路を設けるという努力である。
他者との不可能な対話を「試みる」のである。
対話を「試みる」とは、「他者」と理解し合い、共感し合うためにされるのではない。
そんな甘ったるいものではたぶんない。理解、はそもそも不可能なのである。
こちらの理解を超えている、話がまるで通じないという不可能なものに、堂々と勇敢に身体を開く...それが芸術だ。
そのためには想像力(創造力も)が必要なのだ。
モダンバレエが、コミュニケーションの不可能さ、不完全さを赤裸々に語る。そこにほとんど和解はない。2つの身体が向かい合って「開き合う」だけである。
クラシックバレエが、人間の男性と妖精(『シルフィード』)、王子と白鳥に変えられた女性(『白鳥の湖』)のミスコミュニケーションの悲劇を示す。
奴隷の男性と、囚われた女性の交流(『海賊』)は、恋愛関係に少し似たコミュニケーションに身を投じることである。
わたしはバレエが三度の飯よりも好きだ。
以下、写真の左から右へネットで発表された協賛ダンサー(ダンサーの国籍の表示はどちらかというと無意味かとわたしは思う...)
Luka Acri (Japan/Italy)
Mathieu Ganio(France)
Javier Torres(Cuba)
Junour Souza(Basil)
Emma Hawes(USA)
William Bracewell(UK)
Fumi Kaneko(Japan)
Francesco Gabriele Frola(Italy)
Mayara Magri(Brasil)
Ivan Putrov(Ukraine)
Alina Cojocaru(Romania)
Marianela Nunez(Argentina)
Reece Clarke(UK)
Natalia Osipova(Russia)
Aitor Arrieta(Spain)
Katja Khaniukova(Ukraine)
Fernando Carratala Coloma(Spain)
Miki Mizutani(Japan)
Mathias Dingman(USA)
Rebecca Bessett-Grahm(Canada)
Salvatore De Simone(Italy)
MariannaTsembenhoi(Ukraina)
Sasha Grynyuk (piano)(Ukraine)
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