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Brugge Style
visions fugitives
他にはBrock Collectionとか...
ここ何年かは、いいなと思ったらオーストラリアのデザイナーだったりもする。Maticevskiなど。
洋服への投資がやめられない。
正確にいうとドレス、日本語でいうワンピースの類だ。
わたしは耽美的なドレスが何よりも大好物なのだ。
この春先から、「いつ着られるかあてのない服は買わなかった」「着ていくところがない」「春夏物なんか見ても無駄」など、隔離生活中の世間でも、友達からもよく聞いた。
わたしも置かれた状況としては同じである。
しかし、15週間の隔離生活中は、1週間に一回の食料品買い出し以外にはほとんどどこにも外出せず、家の中と庭で過ごし、また今後どのくらいこの状況が続くか見通しが立たないにもかかわらず、わたしは一度たりとも「着る機会がない」という理由で洋服を買うのをやめなかった(一昨日書いた『桜の園』のラネーフスカヤ夫人に自分を重ねたのはこのため・笑)。
もともと着回しなどは全く考えないし、楽さとか、どこにでも着て行けて便利などという基準はわたしにはない。
とにかく妄想のワンシーンに似合う、あるいは逆に妄想を誘う、とてつもなく美しい服が好きなのだ。
ということは、わたしにとっての洋服は、TPOに合わせて選択し、必要に合わせてまとう、実用的なもの(使用価値のあるもの)ではなさそうだ。
わたしが美しい服が好きなのは、それをまとうことによって、自分のイメージの中の映像のワンシーンに自分を嵌め込む楽しさがあるからである。
つまり、わたしが服を選ぶときの条件は「BGMが聞こえるかどうか」だったりする。
そのように、デザイナー自身の物語以上の物語を付与してしまうのが洋服マニアなのである。
では、使用価値で服を購入するのでなければ、何でするのか...
例えば映画などの映像芸術の中で、女主人公は彼女のキャラクターに合う象徴価値的な服装をしている。
象徴価値というのは「消費者がどのような商品を選択するかが、アイデンティティになる」という価値のことである。
彼女が劇中どんな服装をしてどんなものを持っているかで、彼女がどういう人なのか輪郭が浮かび上がってくるように見える。
どんなものを消費しているかで、どんな人なのかがほんとうに分かるのだろうか?
消費主体が必要と実用のみに応じて消費をしている限り、人間の消費活動には限界がある。
どんなに美しい靴でも2足は履けないし、車は一度に一台しか運転できないし、どんな美食だろうが1日に食べられる量は限られている。
しかし、「自分は誰なのか、自分は何者なのか」という幻想構築のために消費をするならば、消費活動には永遠に動機づけされる。クロゼットに靴が200足あったり、車庫に車が10台ある人、美食案内の本を出版する人...
後期資本主義社会で暮らすわれわれは、金の使い方によってしかアイデンティティを確立できないようになっているのだ。
なせそんな話になるかというと、身も蓋もないが、そもそもアイデンティティとはただの「幻想」だからだ。
で、やはりわたしにとっても美しい服を消費することが...以下略。
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