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Brugge Style
orphee
イングリッシュ・ナショナル・オペラの『オルフェ』を鑑賞した。
音楽はPhilip Glass。
このオペラ作品の原作は1950年のジャン・コクトー監督映画だ。
高校時代、仏映画に夢中になった時期があったため、とても楽しみにしていた...
これ、エディプスものだったの?! というのが大人になったわたしの一言感想。雑(笑)。そちらに関しては後の方で説明する。
意外に映画をそっくりそのまま舞台にのせたような「シネマトグラフの3次元化」がとても興味深かった。
「天才」コクトーは、カメラをレールに乗せて動かすというアイデアを思いつかず、俳優の乗った舞台をレールに乗せて動かして撮影したたそうですよ! それもそっくり舞台上で表現してあり、たいへんおもしろかった。
映画『オルフェ』もまた、ギリシア神話のオルフェウス伝説を、1950年当時のパリに置き換えて映画化したものである。
オルフェウス伝説そのものは:竪琴の名手で詩人であるオルフェウスの妻エウリュディケが死ぬ。彼は妻を取り戻すために冥府に降る。冥界の王ハデスもオルフェウスの竪琴に感動してエウリュディケを地上に返すと同意するが、ひとつ条件をつける。「地上に戻るまでは妻の顔を見てはならない」(見るなのタブー)。しかし彼は振り返って妻の顔を見てしまい、永遠に妻を失ってしまう。
...この伝説のオルフェウス事件は、世界各地に同じ形の神話がある「見るなのタブー」型であり、時間と空間の認識の誕生や、この世とあの世の区別、死というものの可逆性の現実...などを説明するものだと思うが、コクトー版には固有の気になる点がいくつかある。
コクトー版でエウリュディケを死なせ、オルフェを冥界に誘うのは、オルフェに恋をしているオルフェ自身の「死」、つまり死神The Princessなのである。彼女はあからさまにフォリック・マザー「万能の母親」そのものであると思う。
たぶんコクトーはフロイトやラカンに親しんでいたのだろう。
子供は、母親と自分(この組み合わせが「完全な世界」)との間に生まれた絶望的なギャップを、父親のファルスの代わりでもってして埋めようとする。
このギャップを埋める「父親のファルスの代わり」が「象徴」すなわち「言葉」であり、それはオルフェウスが詩人であることと偶然ではないと思うのだ。
オルフェ(子供)は自分が決して万能ではないという限界を受け入れさるをえず、受け入れることによって存在の代理物である「言葉」を獲得する。すなわち彼は「詩人」になったのである。
映像的にコクトーの描いたファルスが画面に描かれるのも偶然ではないと思う。
さらにオルフェが夢中になって解読しようとするのが、この世(「想像界」)にラジオから流れる意味不明の暗号(<「象徴界」からのダダ漏れ)であることも意味深だ。
しかし支配的なフォリック・マザーは彼をやすやすとは手放したりはしない。彼女は執拗に彼につきまとう。最終的に彼女は愛ゆえに彼女自身から立ち去ることになるのだが。
オルフェウスがその才能ゆえに自分の死をも虜にしてしまうとか、愛の力でとかいう説明だけではもったいない作品だった。
(カーテンコールの写真撮影と拡散は奨励されています)
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